ichiko : 相手の「本質」を知るということ |
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いろいろなイベントや会合の場で、最近、特に感じること。人はその人にとって最も価値のあると感じる、例えば肩書きや組織名で人を紹介するものだということ別に、気にはしていないものの「元○○」という表現が好まれるようだ。
今、私はミドル層をターゲットとした『ありか』という生活情報誌を発行しているのだが、まだまだ知名度もない小さな小さな紙媒体である。「今、吉田さんは“ありか”という・・いう」とは言われるものの多くは「元サンケイの名物編集長で・・・」となる。そんな時は大概、ニヤニヤと笑っているが心の中では「おいおい」と思ってしまう。卑近な事例でも「元○○新聞の編集局長で」とか「元○○首相のお孫さんで・・・」という紹介のされ方が多い。また拘りが表に出る場合、例えば「私の後輩が元東大の教授でねぇ・・・しかし本郷は昔とは全く変わっちゃって」などという方は本当に「東大が一番」という気持ちが強き「本郷」という地名を強調したりなさる。 先日も友人の一人と飲んでいた時、彼の言葉の中に「元○○の」という表現が多く、ついに私は笑い転げてしまったのだ。それで「元○○」と「前○○」について語りあった。人生でどのくらい「元」と「前」が必要でそして大切なものか?ということ。彼は理路整然と語っていたが、いずれ自分も「前○○」とか「元○○」と言われる、その日まで、理解出来ないだろうと思って観ていた。
確かに「元」とか「前」という表現は、一つの大切な情報を伝えることに有効であることは確かではある。しかし裸で生まれて裸で死んでいく人間。いつもいつも「元○○」に拘ることなくその人の持つ能力や才能、煌く魅力。とどのつまり「本質」が一体何なのか?を丸ごと知り、付き合っていきたいものだとつくづく感じる。
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