ichiko : 書けること 書けないこと |
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2009年も12月に突入。31日までのスケジュール表を見ながら、やはり、仕事の業務の中には兎に角優先順位というものがあり、「しなくてはならない事」か山盛り。やはり今年の年末も毎年のように気忙しいものだ・・・と。
2003年に始めたプログも書き始めて随分と時間が経ったものだと思う。別に、書いたからどうだ!という事も別段、ないのだが、やはり個人としては大きな変化があった事は確かだ。それは何かというと「書けること」と「書けないこと」があるという事。どんなに言いたい、知って欲しい、聞いて欲しい・・・そう思っても「書けること」「書けないこと」の両面がある事。それは一体でもあるようだ・・・。だからこそ「書けること」を書いた日々はそれなりに自分の内で一つの軌跡となっている。その軌跡があるから、次のホップ、ステップ。ジャンプというのだろうか、そんな事も出来ると思える。
今年、どんなことが自分に変化を齎したか?と言われれば、よちよち歩きながらも『唯識三十頌』を勉強を始めたということかも知れない。これは世親が著した唯識の思想を要約した30の偈頌を玄奘が訳したものだ。今でもまだ、難解極まるものであるが、最初のとっつきは、はて?どうしたものかと思った。しかし、読み進めていくにうち、これまでの自分の内にあった価値観や澱のようにこびりついた考え方とはまた異なる世界に触れることが出来た。改めて「心とは何か」について考えさせられたわけである。利益に役立つ資格を取得したわけでもないが、自分としてはなかなか充実した滑り出しである。
中学生時代、バレーボールにのめりこみ、明けても暮れてもバレーに頑張っていた。クラブのコーチが夏休み前に「心とは何かについて考えろ」という突拍子もない夏休みの宿題を出した事があった。無論、夏休みもバレーボールの練習に夢中になっている自分は頭の片隅にその"宿題をしなくては"という気持ちはあったが、夏休みが終わるまで、全く手もつけずにいた。
そして新学期の部活動初日にコーチが「宿題の答えをひとりひとり答えろ」と言った。部員は皆、有耶無耶な答え方をしていたと思う。中には「心臓です」と回答したものもいた。自分も確かに有耶無耶であったが確か「心って何だろうと考えることが心だと思います」と、そんなニュアンスで答えたと思う。怖い怖い鬼のコーチの表情が少し緩んで、「そうか」と笑った。しかし、少しでも早くに、練習を開始したい私たちは兎に角、宿題よりも練習に取り掛かりたくてウズウズしていたのだ。「練習開始だ!」というコーチの声に体育館が「うわぁ~」「そぉーれぃー」とどよめいた・・・・・
あの時からもうどれだけ時間が経ったのだろうか?未だ、「心とは何か」についての答えは出ない。もしかしたら人は最期まで答えなど出ないのかも知れないとも思う。しかし、そんな事を考えながら、生活しているとああそうか・・・と腑に落ちることが多い。この多さが自分にとっての宝であり、生きる愉しみにもなってきている。「書けないこと」にもいつの日か、腑に落ちる時が来るのかも知れない。その時になると、また何か新しく、思いもしないものが生まれてくるのかも知れない。
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