ichiko : 拍手! |
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最近、人との出会いについていろいろ考えている時が多い。会って話している時も会わずにいる時も「この人との出会いは一体何だったのだろう?」と。出会っても直ぐ消え去ってしまう関係や、何十年も前に仕事で関わった人との再会など、不思議でしようがないのだ。別段こんな事を、いちいち考えなくてもいいのに、いろいろ考えてしまう、まあいい悪いは別として「癖」のようなものなのだが・・・。
会社に就職したとすれば、その時の出会いがいろいろ人生に影響を与えてくれる。本当に狭い狭い世界の中てはあるが、ある程度は「守られた世界」での出来事だ。しかし、いざ、独立してみると一人ぽっち。これまでのある意味「守られた世界」は過去の遺跡のようなものになり、次第に「ああ、そんな事もあったなあ」程度の事になる。ひとりぽっちになると、兎に角、自分で切り拓いていかなくてはならない。じーっとして、待っていて、ただ、ぼーっと口を開いていては一歩も前に進まないのだ。
先般、取引銀行の営業マンがやってきて「しかし、吉田社長はパワフルですよね~」と漠然と言う。私は「パワフルなんてもんじゃないですよ~ただ、当然の事をしているだけですよ」と大笑いして言い返した。彼は一瞬、きょとんとしたが、直ぐに笑顔(営業スマイルだろう)になった。日々、パワフル!なんてことを意識して動いちゃいない。それに決してパワフルではない。しかし、日常生活のワンシーンであまりにも陳腐な言葉をかけられると思わず苦笑してしまう。
それにしても、つべこべつべこべ五月蝿い私が最近よくしていることは神社へいくこと。いろいろ考えながら一番落ち着くのが神社仏閣。しかし、神に拝礼する時のあの拍手は一体どのような意味があるのだろうか。
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『左手は「火」足すなわち陽にして「霊」、右手は「水」極すなわち陰にして「身」。拍手とは、陰陽の調和、太陽と月の交錯、霊と肉体の一体化を意味し、火と水が交わり「火水」つまり(かみ)となる。拍手は身である右手を下げ、霊である左手へと打つ。己の根本原理を霊主に定め、身従う。このとき「火水」(かみ)は神に通じ、神性開顕となって神意が降りる。手を鋭く打ち鳴らす音は天地開闢の音霊、無に宇宙が生まれる音である。それは天照大御神の再臨たる天の岩戸開きに通じる。拍手をもって祈念するとき、そこに天地が開く。そして岩戸が開き、光明があふれ出る。光明とはいわば種々に矛盾した心が、ひとつとなって発する輝きである。その輝きは身分の貴賤を問わず、老若男女を問わない。恐れや迷いを祓い、真に求めるものを己自身に知らしめ、精神潔白となる。』という解説を知った。陰陽五行の伊勢瑞祥先生が読まれたという「天地明察」(沖方丁著)に書かれていたことだ。
知れば知るほどに深い世界である。もっと神聖な気持ちになって参拝しなくてはならないなと痛感。ただ、直感頼りにバタバタとしている日々に只管反省である。
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