ch12.その他 : ギシギシした痛み |
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何か、心が言葉などでは表現できないほどに痛むことがある。外出先で最近よく目にしてしまう光景だ。お年をめしたご婦人のために慌ててエレベーターのボタンを押したりすると「ありがとうございます」とゆっくりゆっくりと乗ってこられる。その瞬間、付添いというか、息子さんか?が背中をコンと押したり、エレベーターから降りたあとにご婦人の腕を強くひいたりしている・・・そんな光景だ。
その母親の倍ほどの体躯の息子。か細く、小さくなった母親に対して何故?そうしなくてはならないのか?しかし他人の私は何も言えずに黙って見過ごす。そうとうなことがない限りは口出しも出来ぬ。その場をさる時のギシギシした気持ちがここ数日間に何度もあった。たいがいその息子たちは「ありがとうございます」の言葉もなくただ、ブツブツと言っている。時々、娘(嫁?)もいる。
まあ、いい・・・しかし。そんな気持ちの連続だ。腹もたつことも多いかも知れない、しかし、白熱するほどに冷静に考えれば、今、あなたがいるのはその母親がいたからではないか?決して、私はきれいごとを並べていない。生活の中ではいろいろある。人が生きるのだからいろいろあるのは当然だ。しかし、とつきとうかという時間、育み、産み、そして、最初に乳を与え、あなたを育てたのだ。そんな思いばかりが頭の中を駆け巡る。
先般も「90になる母親が少し認知症も入ってきちゃって。(排泄関連の言葉)やってられないですよ。今、少し(ケアする場所)連れて行ってもらっているから、ほんとに、せいせいしています」という言葉も聞いた。そうか・・・せいせいしてしまうのだと。ギシギシした痛みは当分消えそうもない。
人が健やかに、そして人に対して優しい気持ちでいられるように生きてそして死んでいきたいものだとつぐづく思う。
「そんな子どもに育てたのも全て親の責任だ!」ということも言う人もいる。子育てとは日々の生活の小さな時間、小さなことの積み重ね。あとになって気付くのだ。いろいろなことが目の前に現れるのだ。冷酷な言い方だが、気か付いた時は、もう遅いのかも知れない。
だからこそ、命を与えられたその日から、日々を平凡でもいい。精一杯生きていくそんな気持ちが大切なのだね。
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