ichiko : 情報の価値観 |
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毎月、私はタブロイド版8ページの情報紙を編集しているのだが、毎月の10日前後というのが原稿の締め切りになる。取材をしてそれをまとめ、データにしていく。次にゲラの校正が入り、最終入稿をして印刷物になるわけだ。ゲラの校正だって1回では終わらないことが多いものなのだ。入稿後に、再び、次号の作業に入っているわけだ。日刊、週刊、月刊とそれぞれの流れがある。随分とはしょってしまったが、こうした作業も近年のめざましいコンピュータ化されてこそ、なせる「技」なのだ。
谷崎潤一郎などが拘った万葉仮名の活字など、日本の近代文学は「活版印刷」に支えられた。しかし、時の流れの中で次第になくなりつつある。今は一部の、趣味の俳句の雑誌や文集などの需要があるくらいか。
今から20年くらい前にはまだまだ花盛りだった活版印刷。そんな昔のことじゃない。職人さんの技術がそのまま作品に出るという素晴らしい世界があったのだ。あの一字一字の活字をひろうという職人技。ざっと10万字の中から探し出す技。ベテランでは3秒で1文字を探す。文庫本1ページを約30分で作り上げる。しかし1時間でも見開きだ。なかなか難儀な仕事だ。
今は印刷物が氾濫している。以前はフリーペーパーの魁とも言うべき媒体を作っていたのだが、フリーペーパーなるものが出来た当初は、それこそ皆が驚いていたのだ。「えっ!これはどうして無料でいただけるのですか!?」と。その度に無料で配れる理由を一つ一つ説明していったものだ。チラシとは異なる新しいメディアだったので、本当に人々は目をみはったのだ。そして、競合誌の発行が続く。
今では「無料」など当たり前。印刷物を入手するのに「お金」が発生などすると、とんでもないことを言われる始末。駅には色鮮やかな雑誌。駅前では「~特集でーす」と女の子が無料て配っている。電車に乗ろうと地下構内をあるけば、ターゲットは異なっても様々な内容のフリーペーパーを手に入れることが出来るのだ。全てがコンピュータ化のなせる「技」。そんな世界なのだ。情報入手は「タダ」が当たり前という現代の印刷文化。
単行本が発刊したお知らせをしても「一冊頂戴」と言われることも多い。CDなどに比べて、紙はタダに見えてしまうのかも知れない。情報はタダではない。無料の陰には「有料ネタ」が隠されているということ。
昨日も言われた。「週刊文春だって320円で買えますよ。情報紙として高くないですか?」と。以前も「R25はタダっすからね」といわれたことがあるが、今回はある程度、似た業界の人であったからこそ、何かが壊れちゃったなあと感じた。しかし、昨夜のそれこそ「締め」ともいえる質問を受けた。
「これって儲かるんですかぁ?で・・・何のために、出しているんですかあ?」と。出してて儲かるか?儲からないか?勿論、大切なテーマ。
「うんうん」と頷きながら再びマドリングスルーの夜が過ぎた。
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