ichiko : この世の「理不尽」 |
||||
時々、本当に哀しくなることがある・・・というより哀しくなることを言う人がいる。
先日、引退宣言した中田のホームページ。私は本当に感動して読んだ。彼のプロのサッカー選手としての日々にただ拍手をしたい気持ちで読んだ。
しかしある人が言った。「あれね、ゴーストが書いているんだよ」と。カッと熱くなった、憤りにも似た感情だった。誰とは言わない。酔っ払いのおやじがくだまいて喋っているのならいい。気にもしない。しかし、彼は社会的立場、影響力のある人だからこそ、私はなんとも言い知れぬ哀しい気持ちになった。「どうして、そんなことが言えるのですか?」と聞いた。すくに答えた「うますぎるんだよ、文章がね」と。暫くの間、私は興奮が収まらなかった。影響力のある立場の人間は、本当の裏をとって、とってとりまくってからモノ言えって・・・・・。たとえ、真実であったにしても、もっと思いやりのコトバ、沈黙はなかったのか?
嗚呼、この世の「理不尽」。
説明のつかない現実。意味を汲み取ることさえ不可能な世界。
私は、先日もこんな「理不尽」の中にいた。
相手は、静かに私の目を見て「よくあることですからねぇ」と言い放った。数秒の沈黙の後に「ええ、よくあることですからねぇ」と私は微笑しながら、彼の言葉を鸚鵡返しした。
何ヶ月も理不尽の迷路を彷徨いなから、本当に呆気なく幕引きした。
現実では、ひとつの「ジョブ」が終了しただけだった。
必死になって何かの意味をこめようとするからこそ、人生に意味がある。
際限なく繰り返される日々の蓄積、ひとりひとりの人生の中で、深い絶望とやり場のない憤り、諦念。
しかし、信じようと思う気持ちがあるからこそ、ひと筋の希望を掴むことが出来る。あらゆる逆境に耐えて、全てを適切なものとして受動する。いわばニーチェの言う「超人」か。意味のなさをそのままに受動して、それとともに生きていくこと。希望を持ち、それに向かい、今=現在それ自体を自分らしく生き抜くこと。嘆く自分を掛け替えない存在として愛してくれる人がいるかも知れない。だから、信じよう。辛くても信じよう。信じよう。今はそれだけだ。
カテゴリ
ichikoトラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: この世の「理不尽」
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://210.196.86.5/~blog_mt/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/728
コメントする