ch12.その他 : 死に水 |
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その方はまるで物語のように静かに語り始めた。
そう「みずえちゃん」という一人の女性の話だった。
暫くすると、俯いて、声をつまらせた。
私たちは何も言わずにそんな様子の彼女を見て、その次の言葉が出てくるまでを待った。
「小さな小さなコップに注がれたビールを飲もうとしたみずえちゃんだったけれど、その時は、全く飲むことができなかったのね。それで、看護師さんが慌てて、お猪口を探してきて、今度はお猪口に注いだの。でも、みずえちゃんはそれをも飲めない。それで、お猪口を逆さにして、小さな窪みに本当に少しだけビールを入れたのね。みずえちやん?というと、それを美味しそうに・・・・・舐めてね」
3日後に、病と闘った「みずえちゃん」は亡くなったという。入院中は「ああ!ビールが飲みたい!飲みたい!飲ませて!」と言い続けていたみずえちゃん。「しようがないわね」「ダメダメダメ」の連続の日々。それでもビールが大好きなみずえちゃんは「飲みたい!」と言い続けたという。ある日、いよいよ・・・・ということが誰でもが分かる時がきた。その日、婦長さんが「みずえちゃん!ずっと預かっていたものを持ってきたわよ」と言い、小さなコップにビールを注いだという。
「もう、大昔の話ねぇ・・・・」とその方はそっと涙を拭った。そして「みずえちゃんの、死に水だったのね・・・」と言うとまた声をつまらせ、泣いた。
「俺は絶対に勝つ!」「私は絶対に・・・」という事は自由に言って構わない。人生に「絶対」などないからだ。でも人は絶対に「死」を迎える。決して避けられないことだ。
そもそもは死にゆく人の生き返りを願い行った儀式ではあるが、このごろは臨終の後に行う儀式。逝く人の唇を軽く湿らせる、そんな優しい優しい儀式だ。最後の最後までビールが飲みたいと言って去ったそのみずえちゃんの「末期の水」。それは、それまでみずえちゃんを優しく見守ってきた人々の愛だったのだと思う。
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