2005年1月アーカイブ

 阪神大震災から10年が経過した。この地震をきっかけとして、地震調査委員会が全国の予想される地震規模や中長期的な発生確率を評価し、結果の発表をしている。マグニチュード7級の首都圏直下の確率が10年以内が30%、30年以内が70%、50年以内は90%。つまり、ほぼ確実に大地震は首都圏に襲い掛かるということだ。
 関東大震災から80年の今、地震の専門家たちは既に「活動期」に確実に入ったと指摘する。阪神大震災のデータを基に想定すると、自力で脱出できない人は生存率38.4%。更に、地震発生の時刻が特に実質的な救助活動を左右する。例えば、真夜中に発生した場合などは、夜明けに起こった時よりも遥かに被害と混乱は大きくなるのだろう。
  こうして、いろいろ書いているうちに、なんとも言えない気持ちになってきた。、人間の力ではどうすることも出来ない「力」を認めざるを得ない。
  防災力を高めようなどと口ではいうものの、やはりまだまだ他人事でしかない。中央防災会議の専門委員会にいたっては首都圏直下型地震被害を、「下町は倒壊、山の手は火の海に」などと想定した発表をする。なんと、ある意味言いたい放題の発表をするんだ!?
  日ごろから、私たちは「起こらない」ということに慣れてはならないのだ。常に、人間の力ではどうにもならない自然の「力」を認めること。迫る危機を、自分の中で常にイメージトレーニングをしておくことだ。細かく、もっともっと具体的に対応と行動をいつもしっかりと考えておこう。

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  六星占術で有名な細木数子さんのテレビ番組を見たことがあるが、その中でタレントの「表年表、裏年表」というコーナーがあり、司会のくりーむしちゅーが面白可笑しく紹介する。表年表はいわば、華やかな経歴。「見て!見て!」という感じかな。でも「裏年表」は「えっ!知らなかった・・・・・」とタレントの別の顔が紹介されてしまう。
  一般人にも「表」もあれば「裏」もある。昔、流行った「肖像画」やまだ需要のある「自分史」なども「見て見て」の世界、いわば「表年表」。大概の人は、「これがとりあえず私の輝かしいプロフィルです」とこんな世界で付き合っているわけだが、たまにしこたま酒を飲んだ勢いでとか、深い悩みのどつぼにズッポリはまっている時に「裏」が見え隠れするのだ。でも、殆どは、それこそ人に知らせず「墓場まで持っていく、いってしまう」裏年表。

  博報堂生活研究所が2005年版生活予報「『灰をまけ! ぬけがけ願望をプッシュせよ!』を発表した。この「灰をまけ!」というコトバにハッとひきつれられた。
 要旨はこうだ。バブル崩壊以降、お互いを牽制し合うような姿勢を取りつづけてきた生活者。高価な支出や、新しいビジネス挑戦など成金的だ!バブル時代的な勘違い!という目で見られてきたが、「生活者はそろそろ自分の夢を求め出してもいいのではないかと考え始めている。育んできた小さな願望の芽を、小さくてもいいから花として咲かせてみたいと思っている。その小さな花を咲かせるためには、花を咲かせるための花咲爺さんの灰のようなものが求める」というイメージを「灰をまけ!」という言葉にしたという。そして、その生活者のしがらみから半歩踏み出そうという願望を敢えて「ぬけがけ願望」と名づけている。

  また、ここの所長である関沢英彦さんのエッセー集『生活という速度』の中で、肩の力を抜いた時間の過ごし方が、「生活観察のプロ」の視点でわかりやすく紹介している。あまりに現代社会は 高速で過ぎ去る。もっと、ゆったりとした日常生活のリズムを取り戻そうという。
小さな車を懸命に回す「ハツカネズミ」の生活をやめ、何もしない「時速ゼロの自由」の楽しさを味わおうじゃないかと説き、中高年の男性たちには、「遊ぶこと」を勧める。偶然に身を任せた旅行などがそのいい事例だ。 「だれもがゆっくりと生きたいと思いながら、忙しさを理由に『できない』と言う。ゆとりのない人こそ、無理やり5分でも10分でも作って、自分の内面を見つめ直すこと。そう関沢さんはメッセージを送るのだ。 毎日毎日 ビジネスパーソンは、仕事の場面で仕事の成果を形で示すために休みの時間にまで持ち込んであくせくする。「何かしなければ」と追いまくられ暮らし、感受性を殺してしまう。
  
 
  さあ、肩の力を抜いて生きよう。今の自分のしがらみから、ちょっと「ぬけがけ」してみてもいい。たまに、気のおけない仲間に話して「ふふふっ」と笑ってもらえるウラ年表を人生の中に残していったっていいさ。それに「墓場まで」の秘密の一つや二つ・・・・あってもいいかも。

  

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 明け方、不思議な夢を見た。第6代・国鉄の総裁だった磯崎 叡さんが出てきた。
私たちは屋台のようなところに並んで座っていた。
  「前に言った通りなんだよ。あの事件〔下山事件〕前夜に僕と飲んでいたんだからね」と言う。私はずっと沈黙していた。そして「下山さんはね、あの人は自殺するような人じゃないんだ」と強く言った。これは、生前、一度聞いたことがあった。

  磯崎さんには新聞社勤務時代に、大変可愛がってもらった。当時、新都市開発センターで社長をされていて、サンシャインシティの仕事では本当に世話になった。「君に任せるよ」といわれた仕事に私はいつも真剣勝負だった。

  引退されて。1997年の6月に亡くなった。体調を崩されているということを聞いてまもなくのことだった。訃報を聞いた時、本当に愕然とした。全身から力が抜けていった。

  「あの日も列車は定時だった」というご著書が手元にある。一枚、手紙が同封されていた。「謹呈   長らくご無沙汰いたしました。さて冥土も近くなりましたので罪滅ぼしに履歴書をまとめました。昨年、日経新聞に書いたものに二、三追加したものです。お笑い草にお届けしますので御覧下されば幸と存じます。 磯崎 叡」

  夢の中の磯崎さんは「言った通りなんだよ」と何度も確認するように言い、すっと席を立った。「あっ、どこへ行くんですか?」と私が慌ててたずねると静かに手を振ってふーっとどこかへ消えてしまった。

下山事件(しもやまじけん)
1949年7月5日、時の国鉄総裁・下山定則(しもやまさだのり)が、出勤途中に公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま失踪、15時間後の7月6日午前零時過ぎに常磐線・北千住駅―綾瀬駅間で轢死体となって発見された事件。松川事件、三鷹事件と共に、国鉄の戦後三大ミステリーの一つとして知られている。
現場を零時20分頃に通過した第869貨物列車によって轢断されたことが判明したが、遺体の司法解剖をおこなった東京大学法医学教室の古畑種基教授と慶應義塾大学の中館教授の鑑定方法の結果、他殺・自殺両説が対立し、法医学界を巻き込むこととなった。
捜査本部でも「自殺説」「他殺説」が二分したが、結局「自殺説」を取り8月4日に発表した後、本部を解散した。しかし、この下山総裁事件がきっかけとなり、国鉄では一気に人員整理が加速したこと、その他の企業においても人員整理が成功しGHQの思惑通りになっていった。このため、GHQの関与を示唆する見方もいまだに根強くある。
当時の国鉄ダイヤは進駐軍の物資輸送が最優先され、列車の時刻を自由にコントロールできるは当時のGHQであった。ということで事件の背後にGHQが見え隠れするのだ。今日にいたるまで明確に自殺・他殺の決着がつかないまま、事件は謎に包まれたままとなっている。

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 人は「永遠」とは思わないが「結構長生きするものだ」と無意識のうちに考えている。
特に企業戦士(ちょっと言い方が古いが)である男性は、自分が定年後も、ゆっくり老後を過ごせるものだと感じている。
  有名な某ゼネコンでは企業年金が結構、あまっていると聞いた。まっしぐらに仕事して、60歳の定年を迎え、その後生きられたのは平均8年ということを聞いた。特に、偉い地位にのぼりつめた人ほど、その期間が短いそうだ。退職金を渡され、奥さんも「お疲れ様」と言って、これから夫婦でそれこそ「旅行でも楽しみましょうか?」なんて言って10年足らず。未亡人になってしまう。
  昨年末、以前、勤務していた会社で一緒に仕事をした男性2人がたて続けに、50代で亡くなった。何年も前の若い2人のことを思い出しては本当にショックだった。まだ独立していない子供を、これから十分な時間を共に楽しめるはずの妻を残して。どんなに無念だっただろうか。まして、定年も迎えることなく、仕事にも「未練」と「心」が残ったはずだ。
  仕事にまっしぐらな気持ちは十分分かる。でも、決して無理はしないで欲しい。「ほどほど」に頑張れば、それでいい。

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 ツタンカーメン王のミイラが5日、調査チームによって一時的に墓から取り出され、CTスキャンにかけられた。この調査で、3000年前若きファラオの死因は暗殺か自然死か、推定では死亡推定年齢が17歳というが、こうした長年の謎が解き明かされるかもしれない。エジプト考古局長官、ザヒ・ハワス博士によれば、王は黄金のきらめく財宝とともに「大急ぎで」埋葬されたという。
  安置されたツタンカーメン王のミイラは、有名な「王家の谷」の地下墓の近くに駐車した特別装備のライトバン内のCTスキャン装置に入れられ、15分間のCTスキャンで撮影された1700枚の写真が撮られ、たという。36年前に行なわれたX線の簡単な調査では、ツタンカーメン王の頭蓋骨内に骨片が見つかっているが骨片が頭部への殴打の証拠と断定できるほど、前回の調査は詳細なものではなかったとか。今回のようにCTスキャンを使うことで、ミイラを構成する散らばった骨や覆いを3Dで詳細に見ることができるらしい。王の生死にまつわる数多くの謎の解明は早くて2月頃とか。日本では、まだ縄文時代。そんな時代にエジプトでは、既に権力闘争が起こっていたのだ。多くの謎が解明される。とにかく、今から考えてるだけで胸がワクワクする。
 

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ch10.生活 : 主婦が輝く時

 娘がケーキを買ってきた。「お母さん、お仕事頑張っているから、後でお茶しようね!」という。テーブルの上にはチョコレートケーキがある。なんか照れくさいやら嬉しいやら。これまで、勉強を頑張っている子供にケーキを買ってくるとことはあったけれど、こんな嬉しいこともあるものなのだと思った。

 今年の1月から某地域新聞の営業と編集の仕事をしている。創刊して今年で57年になる地域に根ざした新聞だ。そこで一緒に仕事をしているMさんはまだ小さい子供を持つママさんだ。保育園に子供を預けて、颯爽と自転車で風をきって仕事場にくるパワフルな女性だ。
  彼女と話しているうちに、今から20年以上前、自分も二人の子供を保育園に預けて、仕事し家庭を両立させるために頑張ってきた日々を思い出した。
  毎日の検温と食事、健康状態をチェックしてノートに記入する。布オムツが5組、着替え、お布団カバーと月曜日の朝などは、とにかく大荷物で出かける。時にはむずかる子供に苛苛したことも度々だ。熱っぽい時は病院へ行かなくてはと思いながらも、気になる仕事の山。そんな時間を過ごしてきた。
  父が脳内出血で倒れた日。暫く、病院へつめなくてはならない日も続いた。その時、長女が小学校4年生になっていた。保育園には4年生から保護者の代わりにお迎えにいくことができた。初めて、長女に自転車を買ってあげた。その自転車に乗って小学校からもどると妹を保育園に私の代わりに迎えに行ってくれた。今でも長女は「私は育ての母よ」と冗談まじりに、いやかなり本気で妹に言う。そんな二人も元気にすくすくと大きく成長した。
  思い出せば、余りにハードで、一分も戻りたくない、そんな時もあったが、今になると過ぎた時間、子供が小さかったころの笑い声や泣き声などちょっとしたことがなんとも懐かしい。
  
  私の友人に、主婦のための社会参加を目的として、「アイムパーソナルカレッジ」というスクールを立ち上げた女性がいる。その中で何人の女性たちが「社会」とかかわり、変化してきたことか。今、親しくしている女性達も何人もそこの卒業生だ。時々、何人かと食事をしたりするが、家事、育児に過ごしていた自分の中でどう変化していったか彼女たちは熱く語るのだ。
そんな姿を見ると、心からエールをおくりたくなる。そして、私は必ず「未来の自分をイメージしようよ」と伝える。みんなも自分もいつまでも輝いていたいから。「今」も大切だけど「未来」も語りたいというイメージを描きながら、私たちは会って、大いに語り合うのだ。

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  願いは叶う・・・と思った日だった。祖父が創業し、私の生家はレストラン業を営んでいた。
当時、赤坂の「常盤家」といえば、かなり有名な店であったという。1950年代に、料理人・道場六三郎氏がここで修行し、1959年にはチーフとなって衆議院議員食堂、総理官邸、明治記念館の料理を担当していたということを、随分前に「文藝春秋」で読んだことがあった。祖父・渡邉喜一と正月に鳩山邸に料理を届けたということも書かれていた。話ばかりで私の記憶の中には全くなかった。
  だいぶ前だが、フジテレビで「料理の鉄人」という番組で鉄人・道場六三郎氏の仕事ぶりを見ながらいろいろ考えていた。その時から、真剣に「出来れば仕事で出会うことはできないものか?」と考えていたが、新聞社に勤務している間は実現はしなかった。雑誌社に勤務する友人が「普通に会えばいいじゃないの」と言ったが、やはり会う「きっかけ」がなかったのだ。
  当時、常盤家の従業員の人たちは口々に「あの人も今は有名になっちゃったからねぇ」といい、昔話に終始するのだった。

 独立し、ある日ふと出版社の社長に「道場さんの本でも作りますか?」と言い、これまでの経緯を話した。企画を持ち込んだ。話は一気に進んだ。
 昼下がり、銀座の「ろくさん亭」に出版社の社長と私はいた。約束の時間になった。
「やあやあ、懐かしい懐かしい」という声とともに、道場六三郎氏が姿を現した。満面に笑みを浮かべて、堰をきったように道場さんは昔の話をしてくれた。そして「分家によく似ているね」と私の顔を見て言った。父の妹、叔母のことだ。「昔から似ていると言われたんですよ」と私も笑った。暫くすると「ややや、本題、本題!」といい、出版の企画、今後の取材の予定についてつめていった。1時間足らずの打合せだったが、なんと、凝縮した時間だったのだろうか。
これまでの私の思いが、叶った不思議な感覚の午後だった。

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  料理研究家の小林カツ代さんと「マヨネーズ」の本を作っている。既にカツ代さんにはマヨネーズを使った、お惣菜をはじめ、酒の肴、お菓子までとバラエティいっぱい料理を作ってもらった。手際のよさは天下一品。とにかく作業がすばやい。天才だとつくづく思う。横顔は真剣そのもの。超方向音痴で、えっ?と思う方向へ行ってしまった時みせる照れ笑いするカツ代さんからは想像もできない。盛り付けも決して妥協しない。だからいつも、キッチンスタジオはカツ代さん、そしてスタイリスト、カメラマン、編集者・・・・緊張した張り詰めた時間が過ぎる。
  おもしろマヨネーズレシピは約30品ほど完成。そして全国からのとっておきの「お取り寄せマヨネーズ」も集めた。そして、今、いろいろとコラムを書いている。中でもマヨネーズ真珠は本当に引き込まれる。かなり科学的知識がないと作れないようだが、いつかは絶対にマヨネーズ真珠を作ってみようという熱い気持ちになる。交響曲、歌、映画、専門店と内容は盛りだくさんとなりそうだ。(原稿アップが少々、遅れているが・・・・・)
  カツ代さんのオリジナル料理にしても、初めてマヨネーズから真珠を作った酒井博士にしても作曲家にしても「もの」を作り出すということは並大抵の才能ではないことがわかる。
私はこうした天才的な才能を持つ人々に出会えたことに感謝し、素晴らしい「仕事」をひとつひとつ丁寧に紡いでいくことにしよう。
 

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ch10.生活 : 成人式

 次女の成人式だった。区で実施される「成人の日のつどい」がオーケストラによる音楽成人式で、式典には家族も参加できるということで、楽しみにしていた。ワーグナーのニュルンベルグ・マイスタージンガーの前奏曲で幕が開いた。「君が代」斉唱。区長や区議会議長の挨拶もヘンデルの「水上の音楽」やバッハの「G線上のアリア」などがバックに流れて紹介される。
 会場は歓声と華やかな振袖姿でみちている。スーツ姿の男性に混じり、派手な色合いの紋付袴姿の男性もいる。こんな彼らがこの時期になるとマスコミで報道されているように、妙なはしゃぎ方をするのではないか?と少し心配な気持ちもしたが、「新成人の誓いの言葉」には明るい掛け声がかかり、小学生による合唱には、これまた「みんな、ありがとう!!」という大きなお礼の声が会場内に響き、式典は滞りなく進行した。エルガーの「威風堂々」でフィナーレとなった。

  机の上に、30年も前に写真館で撮った自分の成人式の写真がある。不思議と色あせることもなく、二十歳の自分の姿がある。時間がそこで止まったかのように。当時、母は「これは、いずれお見合い写真に・・・」と言い、大振袖を誂えた。そんな時、父は「お前の結婚相手は自分で探せ」と言い、くる縁談話には、はしから断っていったことを思い出した。

  月日は流れる。いつの日か、私は自分で探した相手と結婚をし、ついに二十歳の写真は見合い写真として使うことはなかった。そして、今、二人目の娘の成人式を祝う年となった。既に嫁いだ長女と連れ合いが、妹の成人式を祝うために駆けつけてきた。振袖姿が本当に初々しい二十歳の娘が嬉しそうに微笑んでいる。 風はまだ冷たいが、清清しい初春の一日だった。

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ch10.生活 : 人間関係

 2005年を無事に迎えた。今日は抜けるような青空だ。
大晦日は雪が降る中を、沢山歩き、友人と沢山沢山話した。そして「いい年に向かって頑張っていこう」と言って別れた。

 2004年。新年を迎えた日のことを思い出してみる。かかわった仕事、出会った人々、感じたこと・・・何もかも想像できないことばかりの連続だった。
 そして、自分では平静さを保っていると思っていても、泣いたり笑ったり怒ったり。感情の行き交う日々を過ごした。
 日々、想像できないことが起こる。そんなことがスリリングで楽しい!と思えるようになってきた。これは、女性だから、でも年齢だからでもない。「私」が過ごしてきた、感じてきた「時間」の産物なのだ。
 
 昼過ぎに年賀状に目を通す。一枚も書いていないことを恥じつつ。
勤め人の頃、当時は「かかわった」人々には全て出していた。500枚近くの賀状を書いていたというのに。今は至って心がシンプルになっている。

 いつもいつもメールで言葉を交わしている友人はお互いに年賀状を書かなくても「気持ち」が伝わっている。何十年も会っていないけれど、年に一回の年賀状の文字を見ると、当時のことがまざまざと思い出されて、懐かしさで胸がキュッとする人。「あっ」と感動して、今夜電話をして声を聞きたいと思う人もいる。1枚の年賀状でいろんな感情が飛び交う。
 そんな中、喪中の友人からケータイメールが届いた。「新年の挨拶はできないけれど、あなたは人生の中で不可欠な存在であることが分かりました」と。
 長いようで短い人生の中で、男女の別なくどう相手のことを思って行動できるか?ということ。「仕事ですから」なんていうことなく、本当に相手の立場に立てる、想像力のある人間になれるかということが、再度、私にとって今年の課題となった。

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プロフィール

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吉田いち子
東京麹町生まれ。日本女子大学卒業後、サンケイリビング新聞社に勤務。2004年3月独立。
その後フリーランスで単行本取材・執筆。主婦、母親、会社員の慌しい?人生経験を生かした取材が得意テーマ。強みは「人脈」。名刺交換だけでなくまさに「魂」の交換?を理想にした密度の濃い人脈作りを目指している。2005年10月に首都圏在住の40歳以上のミドル層をターゲットとした生活情報誌『ありか』を創刊。2007年5月に、これまでに培ったノウハウを生かし編集企画・出版プロデュースをメーンとする株式会社『吉田事務所』を設立した。2011年春から豊島区の地域紙『豊島の選択』の取材・編集。

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