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‘ichiko’ カテゴリーのアーカイブ

初夢

2019 年 1 月 2 日 水曜日

初夢って1月1日の夜に?もしくは2日の明け方に見る夢でしたっけ?「一富士二鷹三茄」はあまりにも有名。とても縁起が良いとされていますが・・・2019年5月1日に元号がかわる・・・そんなことが頭の中を占めているからか?なんと天皇陛下と美智子さまの前で詩を朗読することになったものの、覚えられないので原稿を手に持っていてよいか?それを宮内庁に相談している、そんな夢だった。醒めた時・・・ど!どうしたのだ、私は!と思い長く沈黙してしまった。

 

2019年初詣

2019 年 1 月 1 日 火曜日

2019年の初詣。

心から願う・・・

そして御神籤もひいて。

「大吉」であった。

見上げると青い空。

どこまでも続く青い空が眩しい!

 

2018年12月31日

2018 年 12 月 31 日 月曜日

今、2018年12月31日月曜日。大晦日である。

「今」と言った時に既に「今」ではないけれど(笑)

理屈っぽいねぇ~

 

さて、今年は9月あたりから、まるでジェットコースターに乗っているが如くのスピード感だった。そして、ある意味スリルとサスペンス状態。強いストレスもかかっていた。「こんなストレスって癌のもとじゃいな??」と思う時も多々あった。だから、昔、一緒に仕事した仲間の葬儀では何とも言えない苦い悲しみに打ちのめされたのだ。

そう、秋にかけて時間の経過の速いのなんのって・・・酷暑続きで体力低下している頃、息つく暇もないほどにただただ慌ただしかった。己の理性を見失うほど(笑)慌ただしかった。来年は願わくば「これはやめよう!やめたい」と強く思う。

 

気分一新!2019年を迎えることにする!出来れば細胞ひとつひとつも変革したい。「意識改革」とでもいおうか。

人間って十人十色。多様性ありすぎ。だからどーでもいいことに対してはあれこれの「あ」の字くらいで対応しようと思っている。どーにかなるさぁ~命あれば程度に考えよう。あくまでも比喩だが、ラガーのように全力でぶつかるのはバスしよう。ふむふむ・・・「拙者通りがかりのものでございまする~」の余裕で生きようと思う。

しかし、今年、分かったことは「睡眠不足」は人間をかえてしまうということ。要は「狂人への近道」というもの。本当に「どうしちゃったの?」というほど狂うのだ。判断ミスもする。感情もぶれる。

確かに睡眠は個人差はあるが、しっかりとることがよい。「きのう徹夜だった」など全く自慢にもならないのだ。もう徹夜続きの日々なんてない。

先ずは自分にあった睡眠をとること。何も8時間ではない。5時間でも6時間でもいい。正常な神経?心理状態で過ごすこと。そして適度な責任感で「🎵ケセラセラ~なるようになる~」がポイントである。

 

お世話になった方々に感謝感謝です!

引き続き宜しくお願い致します!

 

AIとの未来生活

2018 年 12 月 30 日 日曜日

最近はちょっと人と話す時にはAIの話題でもちきりである。時代を斬るキーワードであるのだろう。

いよいよ来年で「平成」という時代が30年で終わり、新しい元号となるわけであるが、やはり「時代」というものの人の生活も変化していくのだろうと思う。最近は驚くコトもないが、やはり想定もしないコトが起こる時代になっていくのかも知れない。昭和時代に生まれ、平成という時代を生き、そして新しいし時代へと移る。話題で持ち切りのAIの作る「未来」へと突入していくのだろう。

 

あるメルマガを読んだ。

「京都大学の近くにカレー屋があったので入ろうとするとカウンター席に店長らしき人物が座って、帳簿らしきものを広げて頭抱えてるんですよ。いかにも絶望的に「今月どうやって乗り切ろう」て感じで。入るのをやめて、そっと立ち去りました。ああいうのは客から見えないところでやってほしいと思いました。」

別に今までは普通に読んでいた方のメルマガであったが何か底知れぬ、妙な寂しさを感じてしまった。もし、私であれば「よろしいですか?」と声掛けしてOKでればカウンターに座り、注文するだろう。驚いた素振りで帳簿をしまいながら「どうぞ」というかも知れない。大変なんだろうな、年の瀬にと思いながらも、寧ろその店主に話しかけてしまうだろうと思う。そしてお腹が一杯になって、その時に初めて「味」「価格」と諸々の何かを感じとると思った。

ふっと星新一の短編小説を思い出した。あるBARのオーナーが美人のロボット・ボッコちゃんを作った。接客もまあまあ。鸚鵡返しの会話もいいけれど・・・あの結末の怖さ!秀逸だ。

もし店主がAIであったら頭も抱え込まずに、店内に案内され席に座り、淡々と利益優先の商品を勧めめられ、それを何気なく食べるであろうって。経営悪化になったらどのように打開していくかAIはササっと答えを出すであろうって。経営がうまくいかねば、決して悩まずに「NO!」と判断するだろうと思った。

未来に向かって、きっと何かが変わっていくのだろう。それは徐々にか?いきなりか?いずれにしても変化というものに対して順応していくのが人間であるが・・・AIでは切り抜けないものが人にはあると私は信じている。

詩を感じた朝

2018 年 12 月 11 日 火曜日

 

 

急に寒くなったある朝のこと。

急に西脇順三郎の詩が読みたくなった。

それはまるで乾いた喉に一杯の水がすっと流れるような久しぶりの感覚。

理由は深く考えない。

本のベージを捲る。

「失われた時」

長編詩だ。

文字たちは心にすっと染み込む。

言葉の美しさに数分、酔いしれる。

 

「猫の首に鈴を付けるのは誰なんだ?」

2018 年 11 月 8 日 木曜日

「猫の首に鈴を付けるのは誰なんだ?」「影武者はいないのか?」・・・昔、サラリーマン時代から、だいたいこういう時は「吉田、お前やれ!」ということが多かった。今思うと「はぁ?」である。

「度胸いいからな」「潔良いよな」とよく言われ。しかし、どうもそのちぐはぐ感におかしいと若い時代は思わなかった。若さとはそういうあれこれをも払拭して「飛び込む」というすごい力があるものなのかも知れないな。

しかし、人は加齢していくと、いろいろな知識というか人生の澱のような知恵がついてくる。だから今は「あだだだ・・・」という感覚である。

そう、年とっても、この「猫の首に鈴を付けるのは誰なんだ?」のお役目がやってきた。もう度胸も愛嬌もない。だから、ただただ能面のように冷静に対応していくしかないと思うと一番弱い「胃」が痛むのだ。

まあ、鈴付けも永遠に続くことでない。そう考えて、さっさと能面で向かっていこう・・・と思う。

 

ああ!Suica・・・

2018 年 10 月 27 日 土曜日

先般、ボッーとテレビ番組を見ていたら「宝くじに当たった人」ということでデータ紹介があった。ある人の「トイレの夢を見て宝くじを買った」とあった。ちょうど、このところ私もトイレの夢ばかり見ていたので「よつしゃ!」ウホッホと気持ちは高まっいたのだが・・・

その日、やたらとあっちこっちへ回ることが多く、バッグをいつものバッグではなく、とても軽いものにした。バスケースからSuicaを抜き取り、スマホのケースにさくっと差し込んだ。回るところが多かったので駅でたんまりチャージした。そして、ちょっとエキナカで買い物していざ改札を入ろうとしたら・・・「ない!」。慌てて、店舗に戻っていろいろ聞いてまわったがやはり「ない!」。

すぐさま、みどりの窓口でそのSuicaの紛失届け出をして、使用禁止の手続きをした。翌日、カードの内容の調査の結果を聞きに行ったところ「あ~残高ゼロになっていますねぇ~」と言われた。「えぇぇぇぇ!」であった。まさかの素早さ!要は使われてしまったのだ。SuicaはコンビニでもファミレスでもタクシーもカードのSuicaという名前の如くスイスイ使える。

性善説の私が大揺れした・・・あああ!と思って遅い。パスケースにしっかりと入れなかった自分がいけないのだと反省したものの、「はて、どんな人が拾ったのか?「ゴミ箱に捨てられたら、まあ、出では来ないでしょうねぇ」と駅員の人が言った。願わくば、変なところにSuicaカードを捨てないでぇ~捨てるならゴミ箱に」と願った。

「きっと厄落とし~厄落とし~」と思った。そして、ワサワサしていないでもっと落ち着いた生活をしないといけないと猛省。

しかし、たんまりチャージした直後に紛失!駅の売店から改札口手前。そのゾーンは余りにも狭い。

宝くじの夢はいずこ・・・

夕化粧

2018 年 9 月 23 日 日曜日

このところ休みがなく・・・

心がザワザワするほどの忙しさだった。

ほっとした日曜日。

時間の感覚がよみがえった。

ふっと、近くの家の花壇にあるオシロイバナが目に入る。

鮮やかな赤色。

お寺の鐘のような黒い種子をつぶすと、白粉のような白い粉が出てくる。子ども時代、よくそれを頬につけて遊んだものだ。

オシロイバナは別名「夕化粧」。

その名の通り夕方から開花する。

名づけ親は江戸時代の博物学者、貝原益軒。

虫たちは夕方頃からその色や香りで引きつけられてしまう。

兎に角、繁殖力が強いオシロイバナは夕方から妖しく香りを放つのだ。

自然に気をとられていると、溜まった疲れがほぐれていく。

 

『方丈記』から考える 天災に備える気持ち

2018 年 9 月 12 日 水曜日

人間とは忘れる動物である・・・

だから生きて行けるのかも知れない。

何もかもを記憶していたら発狂してしまうかも知れない。

 

さて、鴨長明『方丈記』。青春時代はここに書かれている「無常観」というものに知りもしないというのに憧れていた。10代特有の感受性というか、厭世観とか無常観とか。何か儚いものに只管、憧れる気持ち。既に遠く・・・最近はガッツがッツと逞しくなってしまった!

 

さて、『方丈記』に戻るが、現代にも通じるものがある。

例えば元暦2年(1185年)7月に都を襲った大地震について書き記されている。

「塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家の破るる音、雷に異ならず。家の内にをれば忽にひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。竜ならばや雲にも乗らむ」

 

つまり塵や灰が立ち上って、盛んなる煙のようである。地の動き、家の壊れる音はまるで雷の音と変わらない。家の中にいればすぐにつぶされそうになる。走り出れば、地面が割れ裂ける。羽が無いので空を飛ぶこともできない。竜であれば雲にも乗れよう。しかし人間はどうにもならない・・・である。

しかし!

「すなはちは人みなあぢきなき事を述べて、いささか心の濁りもうすらぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」

地震があった直後は「ああ人の世ははかないもの」などと、神妙なことを言っていたのに、少し月日が重なり時間がたつと地震のことなどけろっと忘れてしまい、言葉に出す者もいなくなるのだ。記憶も風化していくのだろう。つまり、今も昔も人間はそう変わらない。デジタルが浸透していてもエネルギーが供給されなければ、それは「過去」の人々と同じ環境に近づく。しかし、忘れてはいけないのだ、天災はいつでも起こるという事を。あふまの片隅にでいい。そして、災害に遭った地域、そして人々のことを忘れてはならない。特に政府は肝に銘じてほしいと思っている。

いつも「防災グッズ背負っています」と若い女性がテレビに出でいた。水を2リットルプラスα。重いだろうに。だからか?「でも一週間が限度!」と明るく笑った。

そう!一番大切なものは「命」である。健康な肉体とへこたれない精神力。これを持ちたい。

 

 

時代?

2018 年 9 月 12 日 水曜日

FBつまりフェイスブックがこれほどまでに浸透する前のこと。「絶対に吉田さんに向いていますよ」と言われ、一旦始めたことがあった。それが原因とは分からないが・・・あるお誘いのイベントのURLから、どうもウイルス感染した。それも他愛もないウイルスだった。その為にPC修理をして、費用と時間も無駄にしたことがあった。

その後、やはり進取の気性の人というか・・・いろいろ教えてくれた人がいた。「なんでその人の行動をいちいち知りたいのか?」と実に不思議な気分になったことがある。彼にとっては何でもかんでもある女性の行動を知っていることが誇りだったのかも知れない。しかし一種、ストーカーのにおいさえしてしまった。

どうもというか、全く合わないことが分かった。「向いていますよ」と言った人を疑いたくもなる(笑)

また、インスタ映えとか言っている人々の行動も全く分からないし、<私にとっては>なんでいちいち報告してるの? はたまた、バッカじゃないか?という日常の瑣末的なことまで、いちいち書き込んでいる人の神経が全く分からない。

そして、最近、何よりも分からないのがメールに「返信」しない人々の心理である。機会があったら一度心理学の専門家に聞いてみたい。スルーしてしまう人の心理が全く分からない。内容としてはどーでもよくなく、「業務」の一端である。あらましが分かったらせめて「了解しました」または「検討します」。そして「いついつまでに~」と言った期間限定の要素たっぷりの案件である。それをいつまでもスルーしていることが分からない。何故か?最近、実にこういう類が多い。何なのだろうか?と思う。

時代が何か変化してしまったのだろうか・・・浦島太郎状態!(笑)