銀行に行く・・・といってもATM。月末なので混雑覚悟!で向かったが、いやあ・・・長蛇の列。そして、ソーシャルディスタンスとやら。長打の列の2倍くらい。日本人ってしっかり真面目な人種だとつくづく。そして皆さん、間違いなくマスクをしている・・・。
今日4月29日は祝日「昭和の日」。
昭和の前半は「天長節」(1927〜1947年)で、後に「天皇誕生日」(1948〜1988年)となった。私の頭の中にしっかり入っているのはやはり「天皇誕生日」。
昭和天皇崩御後は自然の恩恵に感謝する「みどりの日」(1989〜2006年)となり、さらに「昭和の日」(2007年〜)と数々の変遷を繰り返している。
天皇誕生日を天長節として祝う慣習は8世紀から続く伝統で、「天は長く地は久し」(老子)からとった言葉で、天地が永久であるように天皇の治世も続くようにという意味が込められている。天長節は、明治天皇の誕生日(11月3日)、大正天皇の誕生日(8月31日)、そして昭和天皇の誕生日(4月29日)というように天皇が代替わりすると日付が変わっていた。
昭和23年(1948年)に国民の祝日に関する法律が制定され「天長節」が「天皇誕生日」に改められた。昭和天皇が崩御され、天皇誕生日は明仁上皇の誕生日(12月23日)に。それまでの天皇誕生日だった4月29日は「みどりの日」という祝日となったのである。
「みどりの日」は平成17年(2005年)の祝日法改正で「昭和の日」に改められ、平成19年から施行された。最近は昭和時代の流行りの音楽などに人気があったりでひとつのブームといえる。昭和という響きは「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」(祝日法)に定められているように実に意味深さを感じる。
そのまま「みどりの日」は無くなるかと思いきや、5月4日に移動した。
緑眩しい季節が到来する。やはり毎年訪れる、この新緑美しさとともに「みどりの日」は大切にしたい。
今年も「中央図書館」の専門研究員の委嘱をうけた。4月の人事異動もあり、担当の方も異動があった。現在は会議も中止となり、いろいろな業務報告は殆どメールでのやり取りになっている。
その中で何の気なしにその新しい担当の方に「今回のコロナウイルス感染拡大といえ未曾有の体験によって、いよいよ人の価値観も変わるのでしょうねぇ」と書いたところ、Sさんは読まれたコラムの一節を送ってきてくださった、為末大さんのコラムだという。何度も何度も読んだ。Sさん!有難うございます。
危機と文章と自己把握
どうすれば自分を理解できますかという質問をよくいただきますが、根気さえあれば結構簡単で、その都度自分がとった行動や決定したこと、思ったことを文章に書き、それをあとで振り返るととてもよく自分がわかります。人間は安定しておらず、状況によって感じ方や決定することが変わります。
いつもと同じ環境で同じことを繰り返しながら自分を知るのはとても難しいです。なぜならば環境や状況が変わらないと、出てくる自分の反応もまたほとんど習慣化されたものしか出てこないからです。ところが環境や状況が変わると自分の反応が変わります。その反応の癖が自分と思って概ね間違いありません。
神経質なのか。鈍感なのか。決め付けたがるのか。答えを保留したがるのか。仲間を欲しがるのか。距離をおきたがるのか。怖がるのか。リスクを取りたがるのか。外部に責任を求めたがるのか。自分を責めたがるのか。知りたがるのか。まず動きたがるのか。これら全てが自分を知るための大事なヒントです。
今まさに新型コロナウイルスで大変なこのような状況で露呈している自分を、後ほど冷静になったときに眺めると自分自身の隠れた本質が見えます。平時は余裕がありますから習慣の中に隠れていられますが、有事は余裕がないので自分が出てきます。その自分をすかさず描写し残しておき、後ほど眺めることで自己理解を深めるのです。
・違う世界(留学など)に飛び込んだことがある人
・何かを必死で目指したことがある人
・修羅場体験がある人
は自己理解能力が優れていると私は思います。日常とは違う状況で出てくる自分を見てしまうので、どうしても自分を観察せざるをえないからだと思います。
一方、自分を見ることは人によっては耐えがたい辛さを伴います。なぜならば自分が嫌いな人や、否定していることと同じものが自分の中にあることを、直視してしまうからです。この辛さに耐えられなくて人は自分を理解することから逃げようとします。認知的不協和に耐えられないのです。
今はチャンスです。この状況で出てくる自分の姿をこと細やかに描写し、それを一年後に眺めてみてください。想像もしなかった自分の姿が見えることでしょう。大事な点は自分の価値観で裁いてしまい、言い訳をしたり説明しいようとしないことです。いいも悪いもなくただ、自分とは別個の存在としてその個体を観察するのがコツです。
個別には修羅場は訪れますが、集団に訪れるのは極めて珍しい状況です。一億総メタ認知を獲得できるチャンスだと思い、自己観察に努めることを私はお勧めします。この状況を抜ければ、一年後には皆自分の癖と性質を掴んでいてもっと人生を選びやすくなっているのではないでしょうか。
一日三食。
実に規則正しい食生活が続いている。
ちょっとのつもりで・・・あらら!「泥酔しちまった」なんてことは全くない。
必死に歩き回り
必死に考えて
必死に着地まで
必死必死に生きないと、キンキンに冷えたビールもそれほど美味しく感じないものだ。
どうしてか・・・と少し悩みつつ、琥珀色のウイスキイの海に沈みたいとも思わない。
人の生活とは「必死」を抜いてはないね。
テレワークとやら・・・
ある技術者は「集中って意外と疲れますなぁ~ハッハッハ」と意外と明るく言う。
「なんか、話し合っているうちに気づくことって多い」とリモート会議が続く人が言っている。そう言っても「分析」中心の仕事は片付いていくものらしい。
しかし・・・
しかし・・・
何かが違う!と思って気が付いた。
編集者って、今はきつく「ダメ」と言われている、所謂「濃厚接触」が必須だということ。
特に、突っ込んた取材敢行ともなると、時には酒の力をかりて探り出すということも必要な業種なのだ。
歴史年表睨んで・・・また、分厚い文献に目を通しながら「コラム」などの執筆は可能範囲であるが、どうも、本来の自分の動きとは違う。最も「ダメ」な「超濃厚接触」から得られることが多い。取材で得たものは「戦利品」。これをどれだけの知識と知恵で調理していくか?という意外と力のいる世界なのである。
会話は必要。
そして「対話」だ!
そこには想像力も働かせ、そして時には推論もしていく。
しかし・・・今は全く無理だ。
意外と根っこが真面目なところがあるので、「外出禁止」と言われるとそれを守る。
「破ってやる!自分の意思に従う!」という青春時代のエネルギーは現在枯渇している。
しばし、思索の道もいいかなと・・・想いながら進むか。
鳥が鳴いている。
「サクランボの実が色づいてきたぞ!」とでも仲間たちに告げているようだ。
その声は騒がしくもあり、また落ち着いたようでもある。
そうそう!
毎年、ゴールデンウイークの頃になると実は紅さを増していく。
目ざとい鳥たちが一番乗りで啄むのだ。
そして次の鳥たちは待ち構え・・・紅い実を啄んていく。
いつもと変わらぬワンシーン。
日増しに変化していく様子が愛らしい。
季節が変わっていく。
今年の2月後半からの手帳を見る。イベント関連の予定がほぼ消されている。酷く雑にササーッと斜めの線で消されている。
数々の中止と前が見えない「延期に」という言葉が舞う。
全く個人的には、毎年恒例の3月3日の会食。心おけない友人たちとの愉しみもあったが、2月末には「中止にしよう」と私から言い出し、まだその時は友人たちは驚いていたのだ。今考えれば正しかったのか?そうではなかったのか?なんとも言えない。今・・・あの日から友人との会食など設定も出来ない状態ではないか!
分刻みとは言わないが時間刻みほど詰まった予定表は今はない。その「空欄」を見て考える。これまでとは違う世界に入っていくんだよって。
ふと・・・「コヘルトの言葉」を思い出す。あの身震いするほどのバブル時期に人々は一瞬でも狂ったようにその「泡」を味わいそして初めての世界の味を食荒らし、愉悦を貪った。味わっている時、その後の崩壊も知らずに。
今、見えないウイルスという強敵の前で、何も出来ない。ただ罹患しないように行動を著しく止めて、じっとしている。本当に人々は押し黙ってしまっている。
こんなに青い空。そして眩しい新緑。それを感じながらも、それがいつもの「空」ではなく、「新緑」ではないことに気づくのだ。2020年の心の鏡に映るのは。
そう・・・久しぶりに「コヘルトの言葉」に触れる。あの狂ったバブルの日々に、そわそわした怖れを感じた時、私は確か、この言葉に触れた。一方で助けを求めてしまった。あの時、どんなに気負っても、どれだけコトバにより救われたか・・・
エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉。
コヘレトは言う。なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
一代過ぎればまた一代が起こり
永遠に耐えるのは大地。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
風は南に向かい北へ巡り、めぐり巡って吹き
風はただ巡りつつ、吹き続ける。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。
昔のことに心を留めるものはない。これから先にあることもその後の世にはだれも心に留めはしまい。