国際NGОワールド・ビジョン・ジャパンから「チャイルド・スポンサーシップ」の案内が来た。何度も何度も読みながら世界の厳しい貧困地帯で必死に生きようとしている子どもたちの姿を思う。表現できない痛みで胸の奥が苦しい。
この日本でも貧困はある。「え?」ととぼける人もいるだろう。皆が知らないのかもしれない。いや、知ろうとしないのかも知れない。例えば、お母さんが1日にいくつもの仕事を掛け持ちしてクタクタになって・・・子どもたちは提供してくれるところ(店舗など)お弁当をもらっている姿もある。「お兄ちゃんと分けるから」と言ってかけて帰る姿の子ども。また「子ども食堂」といっても毎日開業しているわけではない。しかし子どもたちにとっては食事は毎日のことである。ある時。ある食堂の取材で自分の無知に愕然とたことがあった。「おいしいね❢この味噌汁、お母さんに持っていきたい。だめかな?」と小学生の男児が発した言葉。お母さんにも飲ませたいと言う。
何故?私たちは働くのだろう?とまたまた疑問がわいてきた。生涯で獲得する金額など・・・もちろん、しれている。大いなる❢天才的なスポーツ選手たちのような能力でもなければ・・・
ふと「自分で稼いだこの金は持っていきたい」と言って死んだある男性の姿も思い出した。相続だと骨肉の争いをする家庭もいくつか少しだけ見たこともある。相続税でいろいろ鋳放し手クタクタになった女性の姿も少しだけ見たことがある。
最後に大切なことはどう生きたか?そしてせめて「自分はすごい❢最高だ❢」と歓喜するのもいいがその前に「有難う」という気持ちではないかと改めて思った。
人として生まれてきたのであれば人として人々を想う気持ちでいつもいっぱいな人間でありたい。そしていくばくかでも稼いだならば、衣食住にすこしでも満ちているならば、想う気持ちは行動の原動力にしたい。