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2025年5月18日 | ichikoTV ichikoTV

2025 年 5 月 18 日 のアーカイブ

愛だけではどうしようも出来ない墓じまい

2025 年 5 月 18 日 日曜日

ちょっと取材で雑司が谷霊園に行った。「明日は警報級の大雨です」という天気予報に「絶対に雨の中は嫌だ・・・」と思い、曇天ではあるが早めて行った。まだそれほど暑くはなく、気持ち良い風は吹いていた。しかし、探す墓が無くて、てこずった。霊園に眠る著名人リストにも書かれていないので、「あれ?」状態で自分の甘さを悔いた。

墓地内を歩いているとご婦人方から「大川橋蔵さんのお墓はどこですか?」とやたら聞かれた。案内人のように地図を見ながら「ここのあたりですね~」と教えた。人気なんだなぁと思いつつ、自分の探す「鬼薊清吉」が見つからない・・・江戸時代の大泥棒なんて・・・とほほ、ダメかと思っているところで「お!」と発見に至った。

しかし、墓の管理は本当に大変な事だと思った。代々守っていく為の諸々の条件。例えば、島村抱月の墓じまいに関してもかなりの驚愕だった。坪内逍遥らと新劇運動をリードした島村抱月(明治4年)〜(大正7年)。のちに運命の女性・松井須磨子と劇団「芸術座」を旗揚げしトルストイの小説を脚色した公演では劇中歌を抱月が作詞し、須磨子は「カチューシャの唄」を歌い一世風靡となる。

 しかし、この3人の三角関係話は有名ではあるが・・・大正7年、スペイン風邪により島村抱月が急逝する。芸術座も解散した直後の大正8年、なんと須磨子は抱月の後を追うように自殺するのだ。

さて、抱月の墓は、故郷の島根県浜田市にもあるらしいが・・・ここからが知らない事でまたも驚く話なのでが、抱月の墓に向かい左方向の笹の中に須磨子の骨が埋まっているという。生前、須磨子が秋田雨雀に「私の骨は抱月先生のとなりに埋めてください」と頼まれたという。俄かに信じられない話ではあるが秋田雨雀研究会の書籍を読み進める中でかなり驚愕した。

霊園に行けばもっと愕然として人生って?と考えていしまう。既に何もない光景には唖然とするばかり。勿論、管理事務所の霊園案内図の「眠る著名人」リストからも抱月の名前は消えている。暫くは抱月の三女が守ってきたようだが、三女が2005年に亡くなると、親族の女性が墓の世話を引き継ぐ。そしてその女性が亡くなったあと、女性の遺族では管理が難しく遂に「墓じまい」することになったという。

最近は「墓じまい」といろいろ言われているが、実に実に複雑な気持ちである。