2021年8月28日は暦の上でも珍しい「天赦日」であると聞いた。善い行いはすると良いとしても、神社にお参りにということで某神社へ・・・初詣などではあんなに混雑している神社がひっそりとしている。しかし・・・猛暑で人出もないだろうと。お参りをして、おみくじをひいた。水みくじを初めて体験した。「小吉」とでた。なんでも大大吉もあるらしいが・・・今は、十分に幸せである。


2021年8月28日は暦の上でも珍しい「天赦日」であると聞いた。善い行いはすると良いとしても、神社にお参りにということで某神社へ・・・初詣などではあんなに混雑している神社がひっそりとしている。しかし・・・猛暑で人出もないだろうと。お参りをして、おみくじをひいた。水みくじを初めて体験した。「小吉」とでた。なんでも大大吉もあるらしいが・・・今は、十分に幸せである。
昨夜はあまりにも!美しい月だった。
ふと・・・思った・・・というより次元超えた感覚か?人の人生って本当に本当にドラマチックなんだなと。
このパンデミックともいうべきコロナ禍を経験しなかったら、この次元超えた感覚はアタマを出さなかったと思える。不思議な時間だった。人はどんなに頑張ったったやはり100年だろう。120歳までは可能!という長寿企画のキャンペーンをしたこともあった。しかし、その頃の私は、年齢など全く意識していない日々であり、それに伴う体力もあった。始発の飛行機に乗って、日帰り出張もなんなくこなしていた。年齢など感じなかった。しかし、今は切実な問題として感じている。人には「終わり」があるということ。別段、悲観的に捉えているということでなく、かなり冷静に判断しつつ、それだからこそ人生ってなんてドラマチックなんだろう!と思えるのだ。
リモート会議をしている時は分からなくても、ふっと思い出せば、この事態は大変な事である。過去においては例えば、全国の支局の編集長たちが集まる会合の日時、会場を決める事は難儀だった。ネットワーク会議として、その土地に仕事というより観光も含めて・・・考えて納得できる事だった。しかし、日本においては例えば午後6時からと言えば、皆で討議もできる時代だ。各地の大学の講義だってきける時代である。これこそ「未来に一歩踏み込んでしまった!」ということだ。外国であっても時差の問題は解決できないにしろ、同様である。
秋に某大学の講義があるが、学生たちとのリモート授業ということであると、皆がだいたい遅刻もせずにパソコンの前に集まれる・・・思えば不思議な事。未来に一歩入ってしまったということだな。もう「当たり前」の日常となってしまったが・・・
コロナだったからこそ気づけた事もある。こんなに「接待交際費」という勘定科目が必要なくなってしまったということ(笑)バブル時代真っ最中に、まさに社会生活の渦潮の中にいた時間。そして、新しい世界観?これも思えば実に不思議である!
コロナの前の世界には戻らない・・・念仏の如く、ドイツの哲学者であるマルクス・ガブリエル氏の言葉を反芻する。漸くというか、2020年を過ごして、これほどまでに真空地帯のような時間はなかったなと思った。しかし、この年の時間の蓄積が、かなり価値観というか、何か皮膚感覚のようなものを変えてしまった気がしている。
今年になって年頭からまあ、あれぇ~と、凄いことをいろいろ体験したのだが、これがまた助長されてその皮膚感覚が「やはり!そうか」という想いとなった。暫し、もがいても良いと自分に言ってみる。しかたない。何かを構築する時は仕方ないのだろう。
砂浜に、「よし!これぞ!」と思うほどの砂の城を造り意気揚々と、少し遠目で見た時に想像もしない波がサザサーッと押し寄せてきてあっという間にその城を呑み込んだ!まさに、そんな気分である。だから、これまでにしてきた体験、経験の中で「勝ち取ったものだ」と思い、いつもピカピカに磨いてきた事柄さえ、今はどんよりと曇って見えるのは仕方ないのだ。「ああ!あの時はね!」というのは気の置けない十分に時間を共有した仲間と損得勘定なしの時間に戯言の如く言ってもいい。しかし、それは今後の構築には全く役立つものではない!ということを再認識しよう。
変化を愉しむくらいの潔さが、これからは絶必だと思っている。
立秋を過ぎましたが、東京はまるで体温のような気温です。「危険な暑さです」「不要不急の外出は控えてください」とニュースでは伝えますが、最近はこの「不要不急」が分からなくなっています。「読んで字の如し!」と言われると思いますが、実に誰も彼もが簡単に使用していますね。
いずれにしても暑い!です。天気図を見ているとやたら面白い。暑い暑いといっていても、やはり天気はいつものように秋に向かっているのですね。
葡萄や梨が店頭にでてきました。秋の味覚が大登場です。まるまスイカを、ばきーんと切った夏ももう終わりに近づいていますね。
10月のイベントの天候が気になって気になって・・・過去の天候を調べ始めています。人間の力じゃどうしようも出来ない、そんな世界を感じながら。
暑さ覚悟して!外出。一歩でて歩いているとアスファルトの上にアブラゼミがおなかを上にして死んでいた。
しばし見つめていた・・・
向かいのマンションの花壇に置いた。
長い時間、土の中にいて、夏の太陽に照らされて鳴き続ける。そしてパタンと、それがここか?と問うてみた。
小学生の時から「蝉の一生」とか言って知っているものの、最近、それなりの年齢になってくると、「蝉の一生」についても、何か思うところがあり・・・それが実に深いのだ。
朝から大雨である!そして梅雨寒というのか?寒い!
区史編纂の仕事をしているので、このところカメラマンとあっちこっちを歩き回っていた。雲がたれこめて、どんよ~りしていた日もあるが何とか雨も降らずに歩けた。終わった後、足はかなり疲労したものの、その日は雨が降らなかった。これはLUCKYなのだ。
今日は、よく降るね!
こんな日もあるのか・・・梅雨だもんね・・・と思いながら、窓の向こうを見ている。不思議なもので疲れが飛んでいく。やはり、私は、雨が好きなんだなと思える。仕事では「晴れる」ことが多いが、自分がほーっと落ち着けるのはこんな「雨の日」なんだと分かる。
別のコラム執筆で、訪れなくてはならない寺もあるのだけれど・・・まあ、今日はしっかりと雨音を聞いて、古地図でもにらめっこしていよう。発見があるかも知れないし。
でも、いいな、雨音・・・葉にあたる音も石にあたる音もきっと違う。
もし、私に音楽の才能があれば絶対に作曲している!かな?
おいおい!人生に「もし」はないんだ~(笑)
「あんたも好きねぇ~」とでも言われそうだが、最近、見た夢をしっかり覚えていて、「あれ?」という状態になり(笑)「夢占い」や「夢判断」
とやらを調べてみたりしている。だいたい予定外、想定外の内容の展開だからこそ、なんかあるのではないか?と思ってしまう。色も鮮やかで、内容もなんかぶっ飛んでいる(笑)夢一つで結構楽しいぞっ!
「夢なんて所詮、夢よ~ハハハ」と言われそうだが、私は結構、その意味を考えるタイプ。とくに明け方の夢のリアルさはものすごい!からだ。
今朝は自転車をこぐ夢を見た。実は、普段は自転車に乗らない。もっぱら歩きが多いのに・・・夢の中で何ともスイスイというか、急な坂道も「おおおーっ」と言うほどバンバンこいで進んでいく。ビックリしたのは階段だある。「おおおーっ」どころではない、階段もスイスイこいで、兎に角絶好調な走りである。
ところどころで知り合いに会う。笑ったり・・・話したいと思っているが、自転車スイスイ状態。
ほっ・・・夢から覚めた。朝だ!何だったのか?不思議な朝が来た!
先般、友人と長電話をしてしまった。実は私は、長電話があまり好きではないのだが、メールのやり取りとは全く違う、その世界に入りこんでしまい、ついつい時の経つのを忘れた。お互いに「忙しく」していたので、イタリアンレストランでワインを飲んだあの日からはずいぶん時間が経っていたことに気づいた。電話の向こうの声からお互いに時間を縮めるように、と~んでもなく昔の話までする。事件にも似た出来事まで話して、笑ったりため息ついたりそして笑ったりした。彼女もこれまでの仕事の膨大な書類の処分に本当に時間はかかっているるもののやはり、このコロナが切っ掛けでか、潔く決心出来たと言った。心の中から整理整頓できたと。そして。人の整理まで・・・そんなニュアンスまで語っていた。「それでいいと思うよ」と私はいったものの、人間の「煩悩」というものなのか?とも思った。例えば離れたくても離れられない関係。それは恋愛だけではなくても仕事の関係でも生じる。煩悩といえば煩悩。逃れられないどうしようもない世界が繰り広げられるのだ。人間関係はいつも友好に!とも思うが、「時」がその決別を教えてくれる事もある。そして「はらわたが煮えくり返る・・・とは古人はよくいったもの」と。そんな事を言う彼女にもいろいろあったのだと思うが・・・「私はね、怒りがまるでミルフィーユのように重なっていって、はて?どこから片付けるか?と日々、思っているよ」と返し、二人で笑いあった。平和でもコロナ禍でも、きっとどんな世でも人間って煩悩ばかりなのだろう。喜怒哀楽ばかり。「平常心」に戻れるか?そんなことを常々思い、そして考える事なのだ。しかたない!
昔の書類の片付けも大切で且つ大変な事だが、名刺の整理も大変!本当に大変だ。ひとかたまりの名刺の一番上の名刺を見て、心が震えた。表現の出来ない感情で心が震えた。そう、阪神淡路大震災の時だった。彼女は自宅でまだ就寝中に壁の下敷きになって亡くなったと聞いた。あの日の震えだ。出張で大阪にいて明朝に東京に帰る時、てきぱきと新幹線のチケットを取って渡してくれた。私の掌にある彼女の名刺。トクントクントクン・・・心臓が悲しいといっている。時が経ってしまったね。
「正しい食事」という本のタイトルから食生活の事を改めて考えてみた。「食」といえば、これまでにもいろいろなブームのようなものがあった。とくに・・・と言えば、たいがいのテーマがダイエットに繋がっているものなのだが、コンニャク、バナナ、ゆでたまご、リンゴと、もういろいろありすぎて混乱してくる。しかしよくよく考えてみると何とも偏っているなと。
偏っているといえば、本当にご本人の前では、口には出せぬが猛烈な偏食の方を知っている。「えーっ!」というほどの偏食の上、ほぼ毎日、酒を飲み、かなりのヘビースモーカーである・・・にも拘わらず。至って元気である。しかし、一報で、一生懸命に野菜を多くとり、また薬膳料理など丁寧な食事を続けられたが、割と若くして亡くなった方も2人ほど、また「オリーブオイルしかない!」となんでもかんでもオリーブオイルといって亡くなった方を知っている。人は必ず死んでしまうものなのだが・・・少しでも美味しく食べて長生きはしなくては!と最近は特に思えるのだ。
さて、動画編集をしている中で「二度と芋は食わぬ!!」と戦争体験をされた、特に男性の方々の口からは出る。彼らのいう「芋」はサツマイモではあるが、〝おいも〟スイーツなど様々な商品に囲まれている私たちには全く想像も出来ない「芋」であることが、いろいろ調べると分かる。「色は紫と灰色を混ぜたような色だった」「筋ばかりしかなかった」など、?マークがアタマを占める。「食わぬ」と言うほど、超まずい。それでも戦争中は食わねばならない。本当に当時の食の貧しさと辛さを仰る。。灰色で筋ばかりの芋は決して美味しくはなかろうと思う。そのようなものでも必死に必死に食べて、生きてこられた。そんな時代があったのだ。だから「今は天国ですよ」と皆さんは言うのだ。「今はね、このお腹に」と言ってポンとたたいて笑う。しかし、現代はなんだかんだいっても飽食の時代である。
健康番組の氾濫。あれは駄目これも駄目・・・駄目づくし。情報の氾濫の中で、どんな情報を得たら良いのか?さえ混乱する時がある。そんな時は耳をすましてみるのだ。ダメダメばかりでは話もつまる。これがいい!と言えば、翌日のスーパーからその野菜だなんだかんだがあっという間に売り切れる。じゃあ!どうしたらいいの?とまでいいたい時がある。よく考えれば分かることなのかもしれないけれど・・・
小学生の時の担任の先生が戦争体験を話してくれたことがあった。もう何も食べるものがなく、配給制度の中では、いつもいつもお腹が空いていた。古い古い記憶の中を辿っているので曖昧な点も多々あるのだが、その先生が確か、妹さんとふたりに、あるご婦人が真っ白な握り飯をくださった。手のひらにのせられた真っ白な握り飯。そしてそれをほおばった時の〝美味しさ〟の話だったと思う。勿論、小学生の時、実はあまり食に興味もなかった当時の私にとっては「ふ~ん」くらいの事だったが、今、戦前戦中戦後、復興期等の人々の「記憶の遺産」として、動画を撮り続けていると、その時の担任の先生の様子、そして真っ白な握り飯の味やにおいなど優しい温もりと感覚が伝わってくる。
やはり、現代の日常は「食」が氾濫しているのだ。「超デカ盛りランチ」とか、今はあまり人気がないのかも?「大食い競争」などは好きではない。寧ろ、最近は所謂「健康番組」の内容にも確実に興味が薄れてきた。でも、ふっと「毎日、私、ハンバーガーとポテトでもいい」「気が付けばカップラーメン」などと言っていた昔の勤務先の後輩の顔も浮かぶ。少しばかりの心配がそんな思いにさせる。彼女や彼らは元気にしているのだろうか?
真っ白な握り飯は糖質も多かろう。塩分は控えめにと言われれば味噌汁も厳しい。漬物もこれも塩分過多だろう。甘く煮た豆も。しかし、日本人の味覚にあった、昔ながらの食事について考えて見れば、これってかなりいいと思えるのだ。お浸し、糠漬け、汁物も具沢山にして、豆腐や湯葉、新鮮な刺身、魚の粕漬もろもろ。仕事で汗をかくこともあるだろう。そうすれば十分な塩分だって必要。歩き回って歩き回って「腹減った!」時には真っ白な糖質たっぷりの握り飯もよかろう?と思ってしまう。
健康で「味」が分かって「におい」も感じて、ああ!美味しい!と思える事が一番かなって。適切、適度・・そして適当!