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ichiko | ichikoTV - Part 33 ichikoTV

‘ichiko’ カテゴリーのアーカイブ

こっ・・・怖い

2016 年 9 月 30 日 金曜日

9月はじめから、異様に興奮するほど忙殺される日々が続いた。

徹夜続きならまだいいのかも知れない。

連日連夜というわけではないが、2時間ちょっとということでへんな睡眠不足が続いた。

冷静になれば(笑)

若くはなく、こんな生活をしていると本当に大変である。

寝入りばなの・・・

まだ脳はしっかり覚醒しているつもり・・なのに・・・

なんと地獄にいるような餓鬼がビューンと飛んできて

むんずと腕をつかんでくるのだ。

かなり強い力で、上腕部をもぎ取るくらい。

やややっ!まずい!まずい!まずい!と思いながら。

あまりの怖さにくじをきることさえ忘れている・・・

お経を・・・

嗚呼!なのである。

いやはや、人間にとって睡眠不足とはこれほどに怖いものかと痛感。

要は睡眠と水分が絶必であることが分かる。

泥のように眠る・・・

何事もなかったようにすべては解消されるのである。

人間とは睡眠と水分が大切である。

20代

2016 年 9 月 17 日 土曜日

思えば昔~昔~

一人の意地っ張り女がいました(^^♪

 

大学卒業後の進路で、大学院にいく友人も多かったが、私は兎に角、社会という海に飛び込みたかった。

目の前にうかぶその海はキラキラと輝いていた。どんな波が押し寄せてもどこまでも泳いでいける自信があった。

今、考えると、あまりにも未熟で一言「バカ者」といってやりたいほどの自信があった。

実は「編集」は絶対にやりたくない分野だった。

「しゃべりたい!」という単純なものしかなかった。

それは、今、思えば、世間知らずとはいうものの、あまりにも知らなすぎるバカ者である。

「しゃべり」の世界に入れなかったバカ者はバカなりに、新聞社に入るが、余りにも想像とはかけ離れた「現実」という海に放り出される。

あっぷあっぷするしかない。

自信に満ちて書いた原稿はいきなり「ボツだ!」と。

編集長はなんと床にぶんなげる。

そんな時代だった。

宙をまって床にたたきつけられた原稿用紙を一枚一枚拾い集め乍ら、悔しさでいっぱいになった。

なぜか?階段の踊り場で投げられた原稿用紙をもってがたがたと震えるカラダが一体何なのか?これは果して自分なのか?とたたずんでいた。

自分の目の前にうかぶキラキラした海などあっというまに嵐の海となる。

悔しさで考えがまとまらない日々の中、ただただ意地っ張りの自分はあけてもくれても30行ほどの原稿を気も狂わんばかりに書き続けた。来る日も来る日も。「早く署名記事を書きたい!」その野望で体中は燃えたぎるばかりの日々だった。

ある時、編集長が一言「うまくなったな」と言った。言葉はそれだけ、あっけないほどサラリと。

その瞬間、いやらしいドロドロとした野望のようなものは静かに消えていった。来る日も来る日も空っぽの自信と意地っ張り女が書き続けた30行ほどの原稿の日々は自分のことがよく見えていなかった20代の姿をかえた。いわば、修行だったのだと思う。分をわきまえない、空っぽの自信などあっと言う間にはげてしまうのだ。

本当の自信とは?

日々、ただただ地道に愚直に研鑽をすることだ。

それしかないことが、ようやくわかってきた。

トシとったなぁ~(^^♪

これからもよいトシをとっていこう!

 

 

 

 

中秋

2016 年 9 月 9 日 金曜日

不思議なものである。

空気は湿っぽく、蒸し暑く、天気予報では相変わらず「熱中症にお気をつけてください」と伝えてくれる。

しかしね、必要以上に水を飲むと、どうも調子が悪くなる・・・

それでも季節は秋へと着実進んでいく。

9月7日からいよいよ中秋へ。

今年の中秋の名月はどんな月をみられるのだろうな。

鏡の様に透き通った月に、ガシャガシャした心も映ってしまうのだろうな。

こりゃ、参った!

 

勝負の日 栗を買う

2016 年 9 月 1 日 木曜日

9月1日。

防災の日か・・・

陰陽五行の伊勢瑞祥先生によると・・・

9月5日に何も起こらないでほしいな。起きたら大変!とか。

いやですねぇ~

いずれにしても、防災のことは常にアタマの中にいれておいたほうが良い。

 

朝から、集中した企画会議。

せんじつめれば、「勝負」という二文字が頭の中に。

そう!勝負なのだ。

かなりの緊張の連続。

解放されて駅のコンコースを歩き、「勝つ!」と思って焼き栗を買う。

兎に角「勝つ!」のだと。

 

過行く夏に

2016 年 8 月 23 日 火曜日

8月22日、台風9号が関東直撃!というのに某所へ行かなくてはならず。

「キャンセルですよね?」

「いや、あります」

「はぁ・・・」

 

「山手線は原宿で倒木の為~内回り~暫く動きませ~ん」とアナウンス。

ありゃりゃ・・・

地下鉄を乗りついで乗り継いで行くしかないと路線図とにらめっこ。

総武線もストップ。

しかし交通の麻痺ってどうにもこうにもなりませんな。

電車内の疲労した人々の表情。

 

「暑い暑い」と言いながらも過行く8月。

この夏はリオのオリンピックで寝不足とちょっと興奮と応援疲れか。

 

大雨と風が過ぎ去って気が付けば午前零時を回っている。

ホームに佇む人もまばらに。

 

今年も静かに夏が過ぎていく。

何なのだろう?このどうしようもないもの悲しさは・・・・

夏の終わりって!

 

ひと夏を鳴いて尽くせし法師蝉

日曜日の銀座

2016 年 7 月 24 日 日曜日

用事あって銀座へ。

あらまあ~

休みの日の銀座は銀ブラには適さない?

そんな感じで歩き回っていた。

異国の言葉で溢れている。

完全に観光客で溢れている。

手には大荷物の人々。

時々、夜の銀座も歩くけれど・・・

何かが変わったな。

これが「時代」なのかもしれないね。

 

雲の峰

2016 年 7 月 23 日 土曜日

images夏に向かって一句!

青空をむしゃり喰いつく雲の峰

7月の朝

2016 年 7 月 23 日 土曜日

K氏のお母様の告別式に参列。

「としまの記憶」をつなぐ会としては語り部としてお話しを動画におさめた。

「記憶の残るあの日あの時」の取材ではインタビューをして記事にまとめた。

棺のなかで静かに眠られていた。

あんなにお元気でいらしたのに・・・と思うと、本当に辛い。

享年87歳。

いろいろお世話になりました。

どうぞ安らかに

想い

2016 年 7 月 22 日 金曜日

ポストに一通の葉書があった。

『今世ではありがとうございました。お先に失礼します。』

えっ?なに??

それは、企画制作パオの代表・光永憲之さんの「死」の報せだった。ご子息からの葉書。代表として、映画プロデューサーとして父として見事な最期でした・・・とあった。晴天の七夕に映画監督だった槙坪さんへ逢いに逝いったとあった。見事な最期という言葉で少し安心したあとに・・・深い悲しみが押し寄せた。

ふっと一週間ほど前か、そろそろ映画が完成したかな?試写会かな?などとふっと思ってスマホの連絡先を検索したがそのまま何もしなかった。

槙坪さんは4度目の命日を迎えたとある。

月日は残酷に過ぎ去っていく。

ひとつひとつの情景が浮かぶ。

初めて会った日のこと。

試写会の日のこと。

今では誰でもが意識していることだが、青少年の性の問題、介護の問題、親の看取り・・・社会問題を丁寧に切り取った作品を手掛けた槙坪さんだった。

リウマチが酷くなった頃、ずいぶんと心配した。

面会謝絶の日々もあった。

しかし、いつも微笑みを絶やさず彼女のそばに付き添っていたのが光永さんだった。

葉書にはお二人の若いころの写真がある。

天国で「あら!」なんて、あの飄々とした表情で槙坪さんは言っているのかも知れないな・・・

企画制作パオ

http://www.pao-jp.com/

 

 

 

ル・コルビュジエ

2016 年 7 月 19 日 火曜日

ル・コルビュジエという名前はかなり前から記憶がある。昔、祖父がレストラン「常盤家」を経営していたが、父が副社長時代に丸の内に建築家・村田豊先生に新しい店舗の設計を頼んだ。その村田豊先生がル・コルビュジエに師事していたという方だった。今では当たり前のように見られるアクリルの照明器具などは昭和30年代には「未来」をイメージしたもののようだった。今思えば、不思議な店内。空間を設計される先生だったという記憶が微かにある。父は村田豊先生が設計した「キャンティー」にもよく連れて行ってくれた。そこを訪れる人々の何か日常を乖離した雰囲気は今でも忘れられないものだ。

何もなくなってしまった今は記憶と思い出の中であるが、脳がしっかりしている間はさの思い出の中に入っていけるわけだ。