この世に本来悪人はいない・・・そう信じたいものだが。
土砂災害により多くの方々が避難生活をしている広島市の安佐北、安佐南両区。なんでも避難者宅を狙った空き巣などが相次いでいるらしい。困ったものだが、そういう事をする人間に対してどんなにそれはしてはならない事だと言っても所詮、理解できるものではないのだろう。しようもない。防犯パトロールの強化と貴重品はしっかりともって・・・という呼びかけしかないのだろう。
暑い暑いと言いながら・・・気が付けば、もうすぐ9月ではないか・・・神楽坂女声合唱団のチャリティーディナーショーも今年は結成15周年。ある意味、マンネリといえばそうかもしれないが、やはり誇るべき「継続」なのかも知れない。いよいよ9月からは集中レッスンに突入です♪15周年の重みを改めて真摯に受けとめる時期ですね。
イルカが言葉をしゃべった?!こういうニュースって好きですね。
しゃべったというイルカは千葉県鴨川市の鴨川シーワールドで飼育されているシロイルカのナックさん。推定29歳。飼育員が「ピヨピヨ」と声をかけると、上手に「ピヨピヨ」と返し、他に「ほう?」「ハハハ……」もまねてみせたうです。なんでもイルカは、口ではなく、頭の上にある小さな呼吸孔(鼻)から鳴き声を出したとか。本当に胸がワクワクいる、良いニュースですね!
忙しさにかまけて?サボっていた健康診断。今年こそ!ということで来週人間ドックをうける。いつもの事ではないので、かなりの検査がある総合コースにした。しかし、いろいろ結果がでるんだろうなぁ~と、今からいろいろ心配してもしようもない。性格がはっきりしているので有耶無耶が苦手である。まあ、結果は真摯に受け止めて・・・でもねぇ。
人生で大切な事はいろいろあるが先ずは心身の健康。これしかない。こうして見回してみると、本当に神楽坂女声合唱団のメンバーは元気である。元気だからこそ、結成15年も活動を続けているのだが。若い団員が入ってくると所謂、平均年齢は下がるが、事情あって退団してしまうとこれがまたアップする。80過ぎても元気。多分90過ぎてもという団員もいることになるといいなあ。よく飲み、よく食べ、よく笑い。団員を見ているととこれだな!と思う。やはり15年は凄いよね?20年までということでなく、これからは毎年が記念の年だと思っている。人生は永遠ではないと思うからこそ、その想いは強い。大いに、動物たちの援助、そして社会貢献を団員とそれを応援して下さる方々の気持ちと支援で頑張って行かなくてはならないね。
今日は早稲田のリーガロイヤルホテル東京で行われた「伯爵夫人の相続人」に出席。
「この度、私の財産を相続する権利があると考えられる方々のために、一夜晩餐会を催したく、お集りくださいます様……」と謎めいた招待状の送り主はヴォージュール伯爵夫人の居城ヴォージュール城・・・の設定である。城に招かれたということで少しお洒落して出かける。
革命が起こる少し前のフランス。ヴェルサイユ宮ではマリー・アントワネットと、ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との勢力争いにようやく決着がついたばかり。
目の前で繰り広げられる莫大な財産を巡っての人間模様。勿論、ディナーも美味しくいただく。ふっとタイムスリップ。楽しいひと時であった。
30度をこえるとやはり蒸し暑さを感じるが、やはり「立秋」過ぎると、空気に秋を感じるのは確か。今宵は仕事仲間と暑気払いとあいなり候!やはり大汗をかいたあとの生ビールは美味いね!
夏のイベント情報をご紹介。
しょうけい館
[夏の企画展] 義肢に血が通うまで -戦傷病者の社会復帰と労苦-
恩賞制度の一環として戦傷病者に対して各種の人工補装具が支給されていました。 明治10(1877)年の西南戦争でオランダ製の義肢を支給したのが始まりです。 明治27~8(1894~95)年の日清戦争では、昭憲皇后の「敵味方の区別なく人工手 足を」との御沙汰があり、以来「御賜の義肢」として制度化されたのです。明治37 ~8(1904~05)年の日露戦争後、廃兵院や失明軍人のための盲学校などが設立さ れ、社会復帰の施策が拡充されます。 昭和期には、それまでの審美的な「装飾義肢」に加えて実用的な「作業用義肢」の 開発と職業訓練が本格化します。日常生活、各種の職業、用途別に作業用義肢が製 作され、各人の適正と、義肢の特性を踏まえて様々な職業が選択出来ました。 慣れない義肢による職業訓練と社会復帰後の毎日は、あたかも義肢に少しずつ血を 通わせて、体の一部にしていく日々だったのです。
本企画展では、しょうけい館が所蔵する写真、史料、実物を交えて義肢の歴史をたどり、作業用義肢を装着して第二の人生を歩まれた戦傷病者の労苦を偲びます。
【会期】9月15日(月)まで
【会場】しょうけい館1階
休館日:毎週月曜日(祝日は開館)
開館時間:10:00~17:30(入館は17:00まで)
【入場料】無料
【証言映像 (シアターにて上映)】
「厳しい訓練も今となれば」 「小学校を出て先生に」
「片手のハンデを乗り越えて」「働くために義手を」
「片腕で取った自動車免許」 「人間の尊厳の回復に尽くした生涯」
【関連イベント:学芸員による展示解説】毎回14:00より30分程度 申込不要
8月17日(日)、8月31日(日)、9月14日(日)
詳細はこちら
http://www.shokeikan.go.jp/kikaku/kikaku.html
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昭和館
[第51回資料公開コーナー] 焼けあとからたちあがる人びと
昭和20年(1945)8月15日、約3年8ヵ月続いた太平洋戦争が終わりました。 終戦で人びとの毎日の空襲への不安はなくなりましたが、日本の都市の大部分は焼 け野原となり、多くの人が住むところや家族、財産をなくし、くらしも大変苦しく なっていました。 しかし彼らはたくましくたちあがりました。焼けあとに集まり、生きていくために ヤミ市がならび、少しずつではありますが、がれきを片付け、家を建て、新しい生 活をはじめました。今回は、焼けあとで人びとが新たに生活を始めた頃の光景を紹介します。9月7日(日)まで昭和館1階ロビー。
詳細はこちら
http://www.showakan.go.jp/floor/1f/shiryo/index.html
昭和館 ホームページ
今では資料でしか見ることができない豊島区の「アトリエ村」。今もなお、その土地で暮らしている湯澤久子さんを訪ねる。
1930年代に豊島区の西部にあたる旧長崎町を中心、美術家向け借家群が出現しアトリエ村が形成され、やがて現在の有楽町駅・要町駅周辺に、さくらが丘、つつじヶ丘、すずめが丘、ひかりが丘、みどりが丘などの集落ができた。
湯澤久子さん(74)は、昭和20年の空襲で当時住んでいた巣鴨の家が焼かれ、一家はアトリエ村に移り住む。湯澤さんは5歳だった。周囲は緑の多い環境で、ヘビ道とよばれる細くまがりくねった道を通る時は、怖いくらいだったそうだ。竹やぶが多く、すずめがよく飛んでくるため、すずめが丘アトリエ村と呼ばれたそうだ。大きな窓と天窓が印象的な家だった。周囲には画家や小説家など芸術家が多く住んで交流もあったそうだ。
彫金師だった父親の自助さんは、普段は温厚で優しく、怒られた記憶はないが、いざ仕事となると集中し、決して邪魔をしてはならないと思うほど真剣な姿だった。「そんな父の背中が今でも思い出され、懐かしいですね」と。
昭和33年に土地が分譲され、それから家を建てなおしたが、井戸は当時のままで、植物の水やりなどに使っているという。「思い出がいっぱいつまった土地をずっと守って大切にしたいですね」と笑った。