毎年、誕生日を迎えると人はひとつとしをかさねる。元気溌剌でも病んでいても、どんな状態であっても、命があればとしをかさねる。
社会にでてから、本当に親しくなった友人が40代のはじめで亡くなった時は、「ああ、人には寿命というものがあるの」かとつくづく思った。思い出が去来するとはこういうことかと思った。出張が多い彼女が、久しぶりに時間がとれた日。銀座で少し長めのランチをとった日。交差点で「じゃ。またね」と何も不思議に思わず、別れた翌日に訃報に接したのだった。こんなことが・・・人生にはあったのだ。翌日に。
もう東京は青葉が眩しい季節へと変わっていく。でも東北に戻った友は「そろそろこれからが見ごろ」と桜を絶賛している。そんな友も集合して、今週末に、サラリーマン時代の友人の偲ぶ会をする予定だ。本の出版記念のお祝いも含めて、日本各地から心をひとつにした友が集まる。4月30日が彼の命日である。例会のあとに東京駅で別れた時も「じゃあ、また」と言っていた。言い方がおかしいと思うが、「何か」が起こって初めてその人の大切さ、過ごしてきた時間の愛おしさが分かるものだ。その時に、決して永遠ということがないことが分かるものだ。
何度か不思議体験をした、そんな気持ちを詠んでみる。
命日に友の化身か紋白蝶
いち子さんご無沙汰しています。「じゃまたね」のブログ拝見して胸がつまりました。
私も週一回の稽古ごとの終わりに仲間と別れる際、必ず「又来週ね!」といってさよならするのが習慣になっていますが、来週がいつかはぷっつんと切れるときがくるのですよね。
今は盛りと咲いている菜の花に舞う紋白蝶は優しく春を生きています 良い句を有難うござ
いました。
豊田さん。こちらこそご無沙汰しております。プログを読んでいただきまして嬉しいです。