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1月, 2015 | ichikoTV - Part 2 ichikoTV

2015 年 1 月 のアーカイブ

陸軍境界石

2015 年 1 月 21 日 水曜日

以前より、江戸城再建のことでお世話になった作家の黒田涼さん。新著がなんと東京23区内にも数多くの軍用地があったことを紹介する本『大軍都・東京を歩く』であるが、本日はその黒田さんのセミナーに参加。副題が「忘れられた戦争の跡を歩く」・・・というものではあるが、参加者の方々のお顔ぶれをみると、何とも皆様物静かなインテリという感じの紳士が多く、決してセミナー中、大口あけてダハハハなど馬鹿笑いなどしてはならないと肝に銘じた。

何といっても興味深いのが「陸軍境界石」。戦前の日本にあった陸軍は全国に駐屯地などの用地を持っていたわけではあるが、その敷地境界には、境界を明らかにするための石の柱があり、側面には「陸軍用地」だの「陸軍省所轄地」だのと書かれていた。それが今でも全国の旧軍用地に残っていて、23区内でも多数残っているのである。ご存じでしたか?23区内だけで数十本残っているようです。まだこの石をなんとよぶのか?不明ということですが・・・

築地の産院で首に臍のおを巻き付け仮死産で生まれ、お湯とお水に交互につけられ、医師にバンバンと叩かれ漸く「おぎゃー」と泣いたそうである。小さく生まれ(今では?)幼少時代に育ったのが麹町。永田町幼稚園に通った。国立劇場が出来る前は進駐軍のパレス?とよばれ、その小高い丘が私の遊び場立った・・・シュロの樹が印象深い。そんな記憶がある。もうこうなったら・・・とはいうものの暫く時間はかかるだろうがも少し調べてみたくなった。とにかく千代田区は分かりやすい。

まあ、焦らず一歩一歩ということで。

黒田さん、いつも歩いて歩いて得た情報と知識。いろいろ有難うございます!

どう生きてどう死んでいくか?

2015 年 1 月 20 日 火曜日

今朝、知り合いの方が亡くなったとメールが入った。享年102歳。ご長寿であった。先日、ちょっと体調を崩されたかで入院された。元気でトイレもご自分で行き、テレビでは好きな番組もあって、とても100歳をこえた方とは思えぬほどのお元気であったという。しかし、入院先で何と、オムツをさせられ、「トイレに行きたい」というと病院側からは「オムツにして下さい」と言われ、それに対して怒ると「暴れる」という表現をされたという。どんなお気持ちであったかと思うと辛くなった。先週末に退院して今朝の出来事である。なんでも「もう生きたくない」と言われたと聞き、胸の奥がちくっといたんだ。入院する前日までの心身、そして退院後の心身。とくに、どんなお気持ちでこの日々を過ごされたのか?そう思うときりきりと痛んだ。

どう生きて、どう死んでいくか?最近は本当によく考えるようになった。ますます勉強が足りないことに気付き、少し慌てたりもしている。

 

失われた密度について

2015 年 1 月 19 日 月曜日

先般もご紹介したが、カツ代さんの携帯サイトの「キッチンスタジオたより」のコーナーに定期的にコラムを書いている。昨日、あっこさんが「お風呂の面白い話がきているので、お風呂にまつわるものってある?」てな感じでメールがきまして・・・。「風呂?」と思いながらふーっと頭をゆっくり回転していると、出るわ~出るわ~。まさに昭和時代の話です。明治生まれの祖父母と生活をしていた経験があるとそれはそれは今の時代じゃ分からない話がたーくさんなのです。

たまたま、NPOの活動で10代の大学生とお付き合い等あるが、彼らに対して、昭和時代の話は囲炉裏端できく昔話のにおいさえするのではないか?と思った。へたなこと言ったら「なんですか?吉田さん、それって?」ときかれる筈である。

自分もあと何年生きることが出来るのか全く不明であるが、ダイヤル式の電話がブッシュホンになり、ステータスであった携帯電話が老若男女のモノとなり、一家に一台パソコンが普及するか?と議論しているうちに、ひとり1台の時代が来て、そして過ぎた。今や、ファックスが絶必という家庭もいるがファックスが導入された時はいちいち先方に「ついてますか?」と確認の電話を入れていた時代もある・・・当時は笑えない話である。

しかし、携帯がない時代の待ち合わせ・・・会える?会えない?・・・なんて今考えればあの不便さ、理不尽さがなかなか密度の濃い時間を作ってくれた、そんな気がする。

失われた密度。どうしたら取り戻せるのか?私はつとめて手紙を書くようにしている。よく「書かないとさぁ~漢字を忘れるよねぇ~あははは」と笑い飛ばす人がいるが、そういう事を思う前にどんどん手紙を書くことをすすめたい。葉書にしても便箋にしても独特な空間認識の力がないとなかなかカッコイイ手紙は書けないものなのである。文章も文字も下手でもいい。特に最近の年賀状の宛名の美文字。美文字だらけである。あああ~個性豊かで温かみのある「あっ!あのひとだ!」と思う、あの時代に戻れたらとつくづく思う。

民主党代表選

2015 年 1 月 18 日 日曜日

海江田万里代表の後任を選ぶ民主党代表選が開かれた。岡田克也代表代行が細野豪志元幹事長と長妻昭元厚生労働相をり新代表に選出。

事前に行われた党員・サポーターと地方議員の投票結果は細野氏202ポイント、岡田氏199ポイント、長妻氏94ポイント。党所属の衆参両院議員と次期参院選の公認内定者の投票結果は細野氏96ポイント、岡田氏95ポイント、長妻氏74ポイント。合計で298ポイントを獲得した細野氏が1位、294ポイントの岡田氏が2位。要は細野さんとの僅差。棄権6名の重みを考えるとなかなか僅差という言葉ではあらわせない。「政治の世界は、そんなものじゃない」と言われそうだが・・・今後は単なる個人攻撃はやめて、国民、日本という国の為に何が出来るか、するのか?を考えてください。

 

・・・・20年

2015 年 1 月 17 日 土曜日

1995年1月17日5時46分に発生した阪神・淡路大震災。もう20年という歳月が経ったのかとふと。何年経っても辛い気持ちを抱えられた方々のことを思う。思い出すこと、思い出す人々のこと。お世話になった人のこと。そして亡くなった嘗ての会社の人のこと。

鹿肉

2015 年 1 月 16 日 金曜日

今夕は「としまの記憶」をつなぐ会の新年懇親会。池袋西口で人気のイタリア料理店『オステリアサンテ』で。今、人気のジビエ料理をということで特別メニューを組んでいただいた。そもそも、ジビエとは狩猟で得た天然の野生鳥獣の食肉を意味するフランス語。なんでもヨーロッパでは貴族の伝統料理として古くから発展してきた食文化ということで・・・今宵のメニューは「鹿」。ソースとあいまって旨く、赤ワインとは実によくあっていた。少しレアな感じが嫌だという人もいるがきちんと処理した肉であれば何の問題もないのだが、この処理をする施設しいうかその背景が日本ではまだ定着していないようだ。本来は骨や血にまで、感謝するものらしいが、日本人の味覚にはまだ・・・というところだろう。

みかんかん

2015 年 1 月 15 日 木曜日

カツ代さんのサイトのコラムに書いた「みかん」の話がちょっと話題に・・・キッチンスタジオのあっこさんが実に丁寧に作って下さり写真までのせていただきました。

 「ミカン」「みかん」「蜜柑」と書くと、何だかイメージが違いますよね~みかんを見ているとふっと思い出すのが高校の調理の時間。“おにしめ”というあだ名の先生がいらっしゃいました。今も懐かしい限りの調理実習。ある日「皆様、今日はみかんかんをつくりますっ!」とおっしゃった。高校生の私は「え?みかんかん?」てなもんでした。

家庭科の先生のあだ名は、先輩たちからは「鬼も絞め殺すほどの先生だぞっ」と教えられていたのですが、実のところ、先生の作られる「お煮しめ」は最高に美味しいとのことでした。人のうわさは怖いもんです。ふふっ。

 まあ、みかんを見るとそんな思い出がふっと懐かしく。たまたま?棒寒天もあったので思い出たどって「みかんかん」を作りましたよ~。みかんを横に割って、その中に丁寧に絞ったみかん汁たっぷり入れます。冷蔵庫でひんやり冷やして出来上がり。本当に簡単な昭和の味です。 

なんでもインフルエンザが流行っているようですが、風邪の予防にもなりそヴてす。

 

2015年初レッスン!

2015 年 1 月 14 日 水曜日

神楽坂女声合唱団の2015年の初レッスン。

年末のディナーショーだけでなく、今年は3.11、4.29とコンサートが続く予定である。

年、月、日、時間・・・大切さの意味が最近は心の響く。

親友

2015 年 1 月 13 日 火曜日

毎年、「あら」「まあ」という感じで、はっきり言えば何気なく読んできた年賀状。「今年こそ会いたいですね」「今年も宜しく」「ますますのご活躍を」などという言葉だけでなく、最近は人生の深みに入ってきてしまったな・・・と思う。

何か?結婚後、関西で暮らす親友が難病にかかり、昨年はなんと「死」と直面した・・・という文字を見て、その日、私は震えた。目の前に片付けなくてはならないことがあった、後で電話をしようと思い、直ぐに手紙を書いて投函した。そして彼女から返事がきた。後遺症なのか?「耳が聞こえが悪くなってきている」と書いてあった。そして「会っても筆談になると思う」とある。中学生からのこと、つらつらと思いだして、どうして?どうして?と涙が流れる。

 

高校の時、待ち合わせの時間に遅刻した彼女と駅前で大ゲンカ。ゴメンゴメンという彼女にプイッと横を向いた。

交換日記ではなく、二人でラブストーリーを交換し合った。「返しが遅い!」とまた彼女とケンカ?高校時代から私は瞬間湯沸かし器?

「お詫びに」と言って編んでくれた白いはずの毛糸のマフラーが何故かグレイ系。それを見て、無言の後、ふたりで笑った!

はたちの成人式の日。二人でお祝い会に行き、確か役所からの記念品は国語辞書だった。

彼女の結婚式。主賓席に座らされて、緊張しながら精一杯スピーチをした。幸せを祈った。

20代。とにかく登山!登山!北岳制覇?自然を満喫して笑い合った。

社会人に。彼女は学校の教師に。私は新聞社へ入社。

住むところと仕事場。関東と関西・・・やはり離れてしまったな。

やはりなかなか会えなかったね・・・

いろんなことがありすぎ。本当にありすぎた。

でもね、何があってもずっと親友だよ。

昭和館・しょうけい館 展示ご紹介

2015 年 1 月 12 日 月曜日

 第52回資料公開コーナー スチール写真にみる昭和シネマ

九段にある昭和館で「第52回資料公開コーナー] スチール写真にみる昭和シネマ」という展示が3月8日(日)まで 昭和館1階ロビーである。

【内容】

 昨年(平成26年)のスポーツ界は、野球やアイススケートなどで日本の選手が活躍した年でした。なかでもテニスでは、錦織圭選手が大活躍したことは記憶に新しく今年もますますの活躍が期待される。

日本にテニスが入ってきたのは明治20年頃(1880~1890年代)といわれ、硬式ボールが入手できないため、軟式テニスから始まり、その後、軟式テニス出身の熊谷一弥、清水善造選手らが世界で活躍。

大正10年(1921)には日本庭球協会が創立され、国別対抗戦であるデビスカップ国際試合(デ杯)にも参加するようになりました。昭和7・8年のデ杯では佐藤次郎選手が活躍し世界に知られるようになる

その後、ボールも配給制となるなど、戦争の影響があらわれ、テニス人気は次第に衰退し、昭和15年からデ杯への派遣は中止されました。戦後は、学生を中心に再びテニス人気が高まり、昭和26年にはデ杯に復帰し、昭和30年には日本で初めてデ杯東洋ゾーン大会が開催される。また、昭和33年には当時の皇太子(現天皇陛下)が公式試合(鎌倉庭球)に初出場、御成婚後も皇太子御夫妻のテニスをする様子がテレビで放映され、テニス人気は全国的に高まった今回は、戦前から戦後のテニス競技の様子などを写真と映像で紹介。

   展示内容の詳細はこちら : http://www.showakan.go.jp/floor/1f/shiryo/index.html

  ◎ 昭和館 ホームページ http://www.showakan.go.jp/

 第8回ミニ展示「上田毅八郎氏寄贈作品展(3)」

また、あわせて「しょうけい館 」では第8回ミニ展示「上田毅八郎氏寄贈作品展(3)」も行われている。 1月25日(日)まで。1階展示室企画展スペース。

 【内容】

上田氏の描いた「日本の蒸気機関車」を展示中。蒸気を噴出し疾走する音が今にも聞こえそうな「C53-73」をはじめとしたC53形やC12形、D51形が描かれた原画を展示。戦争での負傷により動かなくなった右手から左手に筆を持ち替えて描いた精密な水彩画である。

詳細はこちら: http://www.shokeikan.go.jp/letter/shokei-news82.html

◎ しょうけい館 ホームページhttp://www.shokeikan.go.jp/